僕の名前はバル。今年、14歳になるオス猫だ。14歳は猫の世界では大体75歳ぐらいかな。だからって、おじいちゃん猫だなんて思わないでくれよな。僕はすこぶる元気だ。
元気がないのは僕じゃなくてノンちゃんだ。ノンちゃんはもうすぐ3歳になる女の子。僕の親友でもありガールフレンドだ。
ノンちゃんの元気がない訳、それはお母さんが外国っていう遠い所に行ってしまったからなんだ。大好きなお母さんが側にいないんじゃ、ノンちゃんの顔がいつも曇り空なのもしょうがないさ。でも、ノンちゃんの顔が真夏の太陽みたいに輝く時もある。
それはお母さんからの手紙が届いた時だ。まだ字が読めないノンちゃんはお父さんにしがみついて、お母さんからの手紙を何度も何度も読んでもらう。
お母さんの手紙はいつも、『ノンちゃん元気ですか?お母さんは元気です』、で始まり、『ノンちゃんのことが大好きです。ノンちゃんはお母さんの宝物です。ノンちゃんのことばかり想っています』、で終わるんだ。
手紙がくるのは決まって毎週土曜日。だから土曜日は、ノンちゃんにとって、幼稚園の遠足やお父さんが連れて行ってくれる遊園地に行く日よりも楽しみにしている日なんだ。
だけど僕はこの間、手紙の秘密を知ってしまった。それはおばあちゃんがお泊りに来た夜のことだった。ノンちゃんを寝かしつけ後、おばあちゃんはお父さんと話をしていた。
『そろそろ本当のことを話してあげてもいいんじゃないのかねえ。あの子ももうすぐ3歳だし、理解できる歳だと思うんだけど』
『分かってるよ。誕生日が終わったら話すつもりなんだ。それまでは、せめて…』
僕はそれから先のことは聞いたらまずいと思って、急いでノンちゃんが寝ている部屋に行ってしまったけど、全て分かってしまったんだ。
僕はノンちゃんの寝顔を見つめた。人間の世界には、『目の中に入れても痛くない』、っていう言葉があるみたいだけど、猫の世界にだって、『シッポを踏まれても痛くない』、っていう言葉があるんだ。僕はシッポを踏まれてどころか、猫にとって何よりも大切なシッポをあげてもいいくらいノンちゃんが好きだ。全ての悲しみからノンちゃんを守ってあげたいと思っている。そのノンちゃんが、お母さんが本当は死んでしまっていたことを知ったらどれだけ悲しむのだろう。
僕は考えただけで強烈に爪とぎがしたくなってきた。だから爪とぎがおいてある場所に走っていって、これでもかというくらい激しい爪とぎをした。あまりに激しく爪とぎをしたので、はがれた爪のかけらが肉球に刺さり血がでてきた。血を見たおかげで僕は少し冷静になることができた。赤くなった肉球をペロペロしながら僕は考えた。
ノンちゃんが悲しまない方法がないかを考えた。猫って考えることはあまり得意じゃないんだけど、その時ばかりは考えたよ。そうしたら、昔、僕が赤ちゃんだった頃、僕のお母さんに言われたことを思い出したんだ。
『お前はまだ小さいから分からないかもしれないけど、大きくなって、お前が心から愛する人が現れたら思い出しておくれ。私たち猫はね、愛する人のために、一度だけ化けることができるんだよ。でもそれは、お前が心から愛する人のためでないとダメなの。だからお前が大きくなって、心から愛する人が出来て、その人が何かで悲しんでいて、その悲しみを切り取ってあげたいと思った時に、この魔法はただ一度だけ使えるんだよ』
お母さんはその後ちょっと厳しい顔をして言葉を続けたんだ。
『この魔法はね、すごく強い魔法だから一回しか使えないの。それだけじゃない、死んでしまうこともあるの。だから使う時はよく考えて使うんだよ。その人が自分の命を捧げてもいい相手なのか。良く考えてね』
だから僕は良く考えた。お母さんのその言葉を思い出してから3日間、そのことばかり考えていた。大好きなカリカリの味が分からないくらい考えた。
産まれたばかりのノンちゃんが病院から家に帰ってきた日のこと。ベビーベットで添い寝をした日々のこと。僕のことを可愛い声で、『バブ』、って初めて呼んでくれた時のこと。ノンちゃんと過ごした3年間は僕にとって宝物のような大切な時間だった。それから、未来のことを考えた。僕はまだ元気だけどあと数年の命だろう。でも、ノンちゃんの未来はまだはじまったばかりだ。人生を歩きだしたばかりのノンちゃんに僕ができる最高の贈り物をしたい。そのために僕が出来ることはなんだろう。考えるまでもなくその答えは最初から決まっていたことだった。。
それはノンちゃんの誕生日の前日のことだった。ノンちゃんのお母さんに化けた僕は、幼稚園にノンちゃんをお迎えに行った。受付で先生に、今日は園バスでは帰らないことを告げていると、教室の扉がはじけるように開き、ノンちゃんがかけて来た。
『お母さん』
大きな声で僕を呼びながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕のお腹にこすりつけるノンちゃん。僕はノンちゃんを抱きしめて優しい声で言った。
『ただいま。ノンちゃん』
泣き止まないノンちゃんをなんとかなだめて、僕はノンちゃんと手をつなぎ、近くの公園に行った。もちろん、ノンちゃんのお話しを聞いてあげるためだ。お友達のこと、お遊戯会のこと、運動会のこと。幼稚園のことだけでも話すことはたくさんあるんだよ。僕はノンちゃんの顔を見ながら一つ一つの話しを心に焼き付けるような思いで聞いていた。
気がついたら夕焼けがノンちゃんの顔をオレンジ色に染めていた。そろそろ帰る時間だ。
『ノンちゃん、そろそろおうちに帰ろう』
僕はそう言うと、ノンちゃんの手をとり立ちあがった。
帰り道、ノンちゃんは無口だった。僕があれこれ話しかけても上の空だった。でもつないだ手だけは、小さな体のどこにこんなに力があるんだろうという位の力で握りしめていた。その力は家に近くなればなるほど強くなっていった。
次の角を曲がればノンちゃんの家が見えるというその時、ノンちゃんは力いっぱいに僕の手をにぎりしめて、絞り出すような声でつぶやいた。
『お母さん、本当は死んじゃったんでしょ?』
ノンちゃんは始めから気がついていたんだ。ノンちゃんは小さな子どもの鋭い感性でお父さんの優しい嘘をみぬいていたんだ。僕は誰にも言えずに小さな胸を痛めていたノンちゃんを想い、悲しくなった。お母さんになった僕を見て泣きながら飛びついてきたノンちゃんを想い、涙があふれてきた。僕は溢れる想いをなんとか抑えこみ、ノンちゃんを抱きしめて、ノンちゃんの目を見て、ノンちゃんの心に届くように語りかけた。
『ノンちゃんが言うとおり、お母さんは死んでしまったの。でも、今、ノンちゃんの前にいるのはお母さんでしょ?』
ノンちゃんは涙で一杯になった瞳で僕を見てうなづいた。。
『だからお母さんがこれから言うことをよく聞いてね。ノンちゃん、お母さんは死んでしまったけど、こんな風にいつでもノンちゃんの側にいるの。生きているものは死んだら終わりじゃないの。愛する気持ちと信じる気持ちがあればいつでもどこでもつながっていることができるの。だから、ノンちゃんは1人じゃない。ノンちゃんの心の中にお母さんはいつでもいるから。そのことを伝えたくて、神様にお願いしてノンちゃんに会わせてもらったの』
ノンちゃんが震える声でつぶやいた。
『お母さん、行っちゃうの』
僕は全力をふりしぼった笑顔で言った。
『お母さんはどこにも行かないよ。いつもノンちゃんの側にいるから』
『お母さん』
ノンちゃんはその一言に全ての想いを込めて叫び、僕に抱きついてきた。もう言葉はいらない。あとはノンちゃんを優しく抱きしめながらノンちゃんの心に語りかけるだけだ。
『愛しているよ。世界中の誰よりも君を愛しているよ』
あたりに夕闇の気配が色濃くなりはじめた。もうお別れの時間だ。僕にはあまり時間が残されていない。僕はノンちゃんを抱きしめていた手を緩め、涙でぬれたノンちゃんの瞳を見つめて言った。
「さあ、もう行きなさい。ノンちゃんが玄関に入るまでお母さん、ここで見ていてあげるから」
ノンちゃんは体を固くしたまま黙っていた。小さな心で様々な想いと戦っていたんだ。そしてその瞬間、彼女は大人になった。
「お母さん大好き」
まっすぐな言葉で彼女はそう言うと、僕を抱きしめ耳元でささやいた。
「お母さん、ありがとう」
そして、彼女は振り返ることなく駆けていき玄関の中に消えていった。
僕はその時のことを忘れないだろう。人間ってゆっくり年をとりながら大人になるんだと思っていたけど違うんだ。どんなに小さな子どもでも、ある瞬間の出来事の中で、その瞬間の心の持ち方を自分でつかみとることで大人になるんだね。僕は、その時、はじめて人間がうらやましくなった。
さて、僕の話はそろそろ終わりだ。僕は今、彼女に手紙を書いている。僕が突然いなくなった訳を、彼女にだけはきちんと伝えておきたいからだ。僕はこの手紙に全てのことを正直に書いている。でも、今、僕がどこにいるのかだけは秘密だ。そんなこと知らせなくたって、僕と彼女はいつでも一緒なんだ。愛する気持ちと信じる気持ちがあれば、いつでもどこでもつながっていることができる。それは、人間だって動物だって、生きとし生けるものならみんな同じことなんだよ。
(おわり)
著作権は作者にあります。
疲れた心に安らぎと光明を。みんなに届け、希望の超短編。
テーマ : 超短編小説
ジャンル : 小説・文学