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福井妖怪奇譚 後輩書記とセンパイ会計、永遠の若狭に挑む

 開架中学一年、生徒会所属、かわいい書記のふみちゃんは、時代が違えばオランダの本を日本で初めて翻訳し、西洋医学の本『解体新書』を作った杉田玄白(すぎたげんぱく)が藩医だった若狭(わかさ)の小浜(おばま)藩で、翻訳作業中の杉田玄白にお茶を入れる娘にだってなれたと思います。若狭というのは現在の福井県にある地名で、若狭湾という魚のたくさん獲れる海があるところです。ふみちゃんは小学生時代、日本の海を調べ、昔の若狭湾では魚以外に〝人魚〟も獲れて、もしも杉田玄白が見つけたら興味本位で解体していたかもしれないと学校で発表したことがあるほどの上級者みたいです。
 一方、そんなふみちゃんに半魚人と人魚の違いを聞いてみたら、長い話が始まってしまった一年先輩の生徒会所属、一応副会長のわたしは、英語が得意なのんびり屋で、福井県と言えば蟹が美味しいことくらいしか知りませんでした。
 七月五日、夏休みにはまだ入ってませんが、若狭湾の浜辺に立つと、穏やかできれいな海が広がっていました。波も静かで水が透き通っていて、まるで沖まで海の底が見えるようです。海水浴客の人たちはいましたが、ごった返すこともなくゆっくりと時間が流れ、みんな浜辺で楽しげにくつろいでいました。
「英淋センパイ、心地よい海ですね。人魚がいるというのも嘘じゃない気がしますね」
 更衣室で水着に着替える前のふみちゃんがわたしに笑いかけました。
「そうねー。あ、でも、ふみちゃん、人魚って夜の海辺で歌ってるようなイメージじゃない? こんな明るい昼間は隠れてて出てこないよ」
 わたしは一年間海外留学していたので、ふみちゃんより学年は一つ上の、年齢は二つ上で、外国の童話やディズニーの魔法とお姫様が出てくるファンタジーが好きなので、アンデルセンの人魚姫や「リトル・マーメイド」ならわかるのですが、旅行前にそう話すと、ふみちゃんは気を利かせて、昔の人が描いた日本の人魚の絵を旅行に持って来てくれました。でも、それは衝撃の絵だったのです。
 だって、日本髪で裸のふくよかな女性で、顔は〝おかめ〟みたいで、おっぱいも丸出しで、お腹のあたりから鯉のぼりみたいな鱗と尾ひれになっている姿でした。得意気なふみちゃんを前にして、わたしは言葉が出ませんでした。
 えっ、日本髪で海を泳ぐの? 胸はかわいい貝殻とかで隠さないの? 人魚って海の中で魚と戯れたり、人間の王子様と恋をしたりするんじゃないの? もっと優雅で美しい尾ひれじゃないの? これ、鯉のぼり柄のタイツじゃない? とツッコミどころ満載でした。
 なので、人魚がいるという若狭湾の町を勝手に小京都みたいなイメージを持ってたのですが、ふみちゃんとやって来た小浜市は民宿や民家やコンビニがある普通の町でした。
「ふみちゃん、そろそろ水着に着替えよっか」
「はい。あ、あの、英淋センパイ、聞いてください! 今回はスクール水着じゃないんです! 外でのスクール水着は卒業したんです!」
 ちょっと何を言っているのかわかりませんでした。聞けば何でも以前銀河さんと数井くんに誘われて川に行って渓流下りをしたとき、スクール水着を持って来てしまって少し恥ずかしい思いをしたそうなのです。ふみちゃんはどんな水着でもかわいいし、学年が違うからプールの授業で会わないのでむしろスクール水着はちょっと見たかったのですが、今日はどんな水着か聞いてみました。
「ビキニです! イオンでお母さんに選んでもらいました!」
 わたしは小学生低学年並みに背が小さいふみちゃんの頭をよしよしと愛でながら撫でました。ビキニって胸が大きい人向きなイメージがあるけど、大丈夫なのかな。
 と言うわたしも実は新しいビキニを買ってもらったのですが。わたしの胸はそこまで成長はしてないけれど、ふみちゃんよりは一応大きいです。
「えっ、ビキニにしたの?」
「お母さんもビキニが好きで、外で水着で勝負するならビキニにしなさいって。で、イオンの店員さんに聞いたら、最近は『シンデレラバスト』というサイズのビキニもあるから大丈夫と、フリルがついたかわいいのを薦めてくれました。大切なのは見せ方なんだそうです!」
 ふみちゃんはシンデレラというより親指姫みたいな可愛さですが、〝スク水からの卒業〟にやる気満々でした。ここに数井くんがいないのが残念だけど、せっかくだし、たくさん写真を撮って数井くんにいっぱい送ってあげようかな、と二人で更衣室に向かうと、先にふみちゃんのお母さんのあやさんと銀河さんが着替えを終えて出てきました。
 あやさんは〝Excellent(エクセレント)〟のE、銀河さんは〝Galaxy(ギャラクシー)〟のGだと聞いていましたが、二人が海を見て並ぶ姿は圧巻の眺めでした。
 あやさんの黒地のビキニは、赤い火の玉と卒塔婆(そとば)が描かれた独特なデザインで、こんな水着どこに売ってるんだろうと思いましたが、長い黒髪を後ろに一つ結びにしている姿に本当に似合ってました。あやさんは若い頃にふみちゃんを産んだそうで、まだ三十代ですし、肌つやも良くてかなり若く見えます。
 一方、銀河さんはアメリカ人みたいな星柄入りのビキニですが、ブラは白地に大きな青い星、ショーツは青地に小さな白い星が無数に散りばめられたデザインで、もうスタイルが良すぎて同性のわたしから見てもクラクラするほどでした。銀河さんにそういうアメリカンなデザインが好きなんですか? と聞くと、
「え、だって、小浜(おばま)来たんだもん。やっぱこういう柄でしょ!」
 と何だかよくわからないテンションでした。
 あと参考までに一応言うと、わたしはCでふみちゃんはAなのですが、銀河さんが言うには〝Cute(キュート)〟のCと、〝Angle(エンジェル)〟のAでいいじゃない、ということでした。ふみちゃんはシンデレラからエンジェルにクラスチェンジしたようで、確かにそのほうが合ってます。まあ……お、おっぱいの話はもうこれくらいにしましょう。ビキニだからそこに目が行って仕方ないとは言え、聞かせる男子たちも今日はいませんし。
「あら、ふみと英淋ちゃん、二人ともまだ着替えしてないの? さっさと着替えちゃいなさい。そんな普通の服じゃ、海での一分一秒がもったいないわよ」
 あやさんはわたしたちに微笑みかけながら言いました。銀河さんも同調します。
「ねぇ、今日はふみすけちゃんのビキニデビューなんだってね? 早く着替えて、お姉さんと一緒に砂浜を走りましょ!」
 銀河さんと一緒に砂浜を走るとか、すごく楽しいとは思うけど、胸の揺れ具合的に拷問です。ふみちゃんは一瞬沈んだ顔で苦笑いし、「やっぱりビキニはあれくらいじゃないと……イオンに騙された……」と地面に向かってつぶやいていたけど、たぶんイオンの店員さんもふみちゃん母娘がビキニを欲しがったんだし、罪はないと思うな……。
 わたしは気落ちしているふみちゃんの頭を撫でて声を掛けました。
「ふみちゃん、お母さんがあれだけスタイルいいんだから、大人になったら大丈夫だよ」
「英淋センパイ、そ、そうですよね。よし、胸が大きくなる食べ物を図書館で徹底的に調べて、体操とか頑張ります!」
 かわいいんだし数井くんもいつもそばにいるんだから、胸のサイズくらいで焦る必要ないと思うんだけどなーと感じつつ、とにかく更衣室で着替えを済ませました。
 ふみちゃんより先にわたしが着替えを終え、あやさんと銀河さんに眺められながら待っていました。わたしのは黒いビキニに白い薔薇のフリルがついていて、首にもフリル付きチョーカーを巻いたメイドっぽい感じで、水着店で一目惚れしたものです。これでトレー持ってジュースとか差し入れたら楽しいだろうな、とウキウキして親に買ってもらいました。
 あやさんはわたしの肌にも驚いたようです。
「英淋ちゃん、ほんと肌が真っ白ね。学校のプールとか休んでるの?」
「いえ、プールの授業はちゃんと出てますけど、肌が弱いので、日焼け止めを塗り残しがないように隅から隅まで重ね塗りするんです」
「お肌ケアばっちりなのね」
「まあ、お肌が腫れちゃったところを小さい弟たちに引っ張られたりすると痛いので」
 続いて、ふみちゃんの着替えが終わり出てきました。薄いピンクの大きなフリルが胸全体に付いたふわふわビキニで、襟元で紐をクロスしてうなじで結び止めてあり、髪留めもいつもの白リボンでなく髪をサイドテールにして水着とお揃いの色のリボンで結んでいました。
「わぁっ、ふみちゃん、すっごいかわいいよ! ちょっと記念に写真撮らせて!」
 恥ずかしがるふみちゃんを十枚くらい連写で撮り、ふみちゃんを思わずぎゅっと抱き締めて、たっぷり日焼け止めを塗ってあげて、いざ、美しい若狭の海へダッシュしました。

 この七月五日は「ビキニの日」なんだそうです。一九四六年の七月五日にフランスのパリでルイ・レアールという人が〝世界最小の水着〟としてビキニスタイルの水着を発表したのですが、この数日前にアメリカが南太平洋のビキニ環礁(かんしょう)で核実験を行ったことから、「ビキニ」と命名したらしいです。一九四六年は太平洋戦争終結の翌年なので、日本が終戦で悲しみに包まれている時代に、ファンションの都・パリでは新しいモードが登場したわけです。
「ふみちゃん、やっぱ戦勝国と日本はかなり雰囲気が違ったのかな」
「そうですね、日本にもビキニは一九五十年代に輸入されたそうですけど、終戦後でなかなか水着で海水浴という余裕もなかったでしょうし、一般に広まるのに二十年かかったそうです」
「戦後二十年かー。ベビーブームって言うんだっけ?」
「ねぇねぇ、きみたち、ちゅうがくせいが何を小難しい話をしてるの? 中学生なら思い切り海に入って百メートルくらい泳いで来なさいよ」
 まさかナンパかと思いきや、銀河さんにいきなり背中を叩かれましたが、実は海へダッシュしようと思ったけど足踏みしてしまった理由がありました。何やら浜辺を仕切るロープみたいなものが張られていて、その中でビキニ水着の女性がたくさん準備運動しているのです。
「英淋センパイ……あれって何かの撮影でしょうか? テレビカメラみたいなのを回してる人がいますね。あと、帽子とサングラスでイスに座った、いかにも監督みたいな人もいます」
「――あ、ほんとだ。ふみちゃんよく見えるね」
「私、身長が少し足りない分、視力がすごくいいんです。いろんなものが見えるんです」
 身長はあまり関係ないと思うけど、いろんなものが見えるのはどうも本当らしいのですが、とりあえず撮影の邪魔にならない場所で泳ごうとふみちゃんの手を引こうとしたら、一瞬早く銀河さんがわたしたちの手をグイッと引っ張って三角編成で駆け出していました。
「えっ、ちょっ、銀河さん! 撮影の邪魔になりますよ!」
「でもさ、ローズちゃん、『エキストラ飛び入り大歓迎』って看板持ってるスタッフがいるよ! これって行かなきゃ損じゃない?!」
 何が損なのかわかりませんが、好奇心に駆り立てられた銀河さんの突進力は止めようがありません。ちなみに、ローズちゃんというのはわたしのことで、変わった呼び方ですが、いつも薔薇の髪飾りを付けていて、今日は海なのでそれは外しましたが、水着に白い薔薇のフリルが付いているので、銀河さんはさっき「やっぱローズちゃんは海でもローズちゃんなのねー」と面白そうに言っていました。で、エキストラ募集の看板に着くと、スタッフの方は銀河さんの圧倒的ギャラクシーなビキニスタイルを見て「ワオッ! お姉さん、あなたもやりませんか?! てか、いつやるか? 今でしょ!」と前のめりな手振りで勧誘してきました。
「あたしはやる気なんだけど、この子たちもせっかくかわいいビキニだしね、未成年でも参加できるの?」
 待って、話が早過ぎる。戸惑う間に、スタッフは笑顔でバッチグーサインを出しました。
「保護者の方が了解でしたら、もちろん大丈夫です!」
「オッケイ! 聞いてくる!」
「えっ、えっ」
 わたちたちがイエスもノーも言う暇などなく、銀河さんは浜辺のパラソルで和んでいるあやさんに聞きに行き、あっと言う間に戻って来ました。ふみちゃんとわたしはただ目をパチクリさせていました。
「ふみすけちゃん、いいってよ! ローズちゃんも大丈夫って。特に、ふみすけちゃんは背が小さいから前のほうで写してもらいなさい、ってお母さん言ってたよ!」
 パラソルの下であやさんが「がんばれ~!」って感じで大きく手を振っている。銀河さんとあやさん――この組み合わせは初めてですが、ちょっと危険な匂いがしました。
「……ま、前のほうですか?」
 ふみちゃんもさすがに戸惑っていましたが、銀河さんが「ふみすけちゃん、こういう時こそ小ささに価値があるのよ!」という一言であっさり丸め込まれて、二対一になりかけたので、わたしは抵抗せず流されるまま頷きました。もしかしたらアイドルとかが来るかもしれないし、今日は自慢の水着だし、海の思い出としてもありかな、と思い直しました。
「決まりね! じゃあ、大人一人、子供二人でお願いします」
 銀河さんは遊園地のチケットみたいに言って、スタッフの誘導で多くのビキニ女性で賑わうロープの中に入れてもらい、エキストラの出番を待っていると、あまり待つもことなく拡声器で説明が始まりました。

 主演の女性タレントの準備が済んだようで、スタッフの人たちも慌ただしく動き始めました。ある大統領来日に合わせた小浜の観光PR映像撮影で、主演は小浜出身のグラビアアイドルで、彼女は〝永遠の十六歳〟と呼ばれているそうです。竜宮(たつみや)ヤオちゃんという名前でした。
「ねぇ、永遠の十六歳って十六歳なの? もっと上なの?」
 銀河さんが素朴でストレートな疑問をスタッフにしましたが、スタッフもタレントの素性は詳しく話してくれず、「彼女は永遠の十六歳なんですよ」とみんな笑って誤魔化すだけでした。十六歳ってことは高校一年か二年の年齢です。携帯でネット検索してみると、〝絶対老けないグラビアアイドル〟と言われていました。
「ふみちゃん、ずっと十六歳のままってすごいね。お肌のケアとかすごくしてるのかな?」
「英淋センパイ、そうですね……グラビアアイドルだから、もちろん力を入れてケアしてると思いますが、小浜出身で永遠の十六歳となると、何となく他の理由もありそうですね」
 ふみちゃんは少し神妙な顔つきで言いました。
「他の理由? 食べ物とか?」
「食べ物……そうですね、半分合ってるような、半分違うような……微妙なところです」
 何だかふみちゃんは、さっきから煮え切らないような表情を浮かべていました。エキストラ参加が不安になってきたのかな。そう言うわたしも少し気後れしてきていました。実は携帯で竜宮ヤオちゃんを検索してみたら、動画サイトで彼女のPVが八百万回以上再生されていて、わたしたちが知らないだけで結構有名人かもしれないし、今回のPVにもし自分の顔が写ったら日本中の人に八百万回見られるかもしれないのです。
「ヤオちゃんのPV、八百万とかすごい再生回数だな……」
「ん~、ローズちゃん、その顔はちょっとビビッてるね? 大丈夫よ、アイドルのPVなんて、エキストラの顔は誰も見てないわよ。例えば、ローズちゃんは男性アイドルの曲の動画を見てエキストラの顔を覚えてる?」
 銀河さんが不安を察してフォローしてくれました。
「まあ、そうですよね。考え過ぎですね」
「そうですよ、英淋センパイ、今まで食べたパンの枚数を覚えてないのと一緒です♪」
 人差し指を口元に立てながらドヤ顔で言うふみちゃん。
「……ふみちゃん、それはちょっと違うと思うけど、まあ、ふみちゃんがビビッてないんだし、わたしも頑張らないとね。後で弟たちに見せる記念動画って感じで行きます!」
 わたしは両拳をぎゅっと握って気合いを入れました。
 やがて撮影が始まり、動画サイトで見たよりもはるかにスタイルが良いビキニ姿のグラビアアイドル――本物の竜宮ヤオちゃんが手を振ってエキストラに挨拶してくれました。髪はセミロングで軽やかに海風になびき、鼻筋が通っていてまつ毛が長く、澄んだ大きな瞳をしていました。そして弾力溢れるおっぱいと見事なくびれで、これだけたくさんビキニ女性エキストラがいても全然埋もれることのない若さと美しさのオーラを放っていました。
「ヤオちゃん、ほんと美人ですねー。スタイルもいいし。この中でプロポーションで太刀打ちできるのは銀河さんくらいですね」
「そう? ローズちゃんも美人だし、プロポーションもバランスいいから、高校生になったらもっときれいに発達すると思うよ」
 発達! 銀河さんレベルとは言わないけど発達したい! というか、まさかわたしが褒められると思わなかったのですが、銀河さんは率直に言う性格なので嬉しくて照れました。
「ほ、ほんとですか。いや、でも、ヤオちゃんや銀河さんに比べると、すごく普通です」
「ローズちゃん、肌の露出を抑える服をいつも着てるけど、もっと見せればいいのに。カラダを人に見せればきれいになるってあれ本当よ」
 いや、でも、ビキニだけでも精一杯の度胸を絞り出しているのに、銀河さんみたいにいつもヘソ出しタンクトップとか、羞恥心の耐久力が足りません。
「銀河さん、わ、私にも何かプロポーションに関するアドバイスをください!」
 ふみちゃんが忘れないでと言うような勢いで銀河さんの手を引っ張った。
「そうね、お肉と大豆とキャベツをたくさん食べてね。お肉は美容にいいのよ。お肉の脂肪分は肌荒れやシミ、しわ、たるみを予防するの」
「お肉、大豆、キャベツ――あ、お母さんが味噌カツをよく作ってくれるんです。キャベツもたっぷりです」
「うんうん。お母さん、あんなに若く見えるし、スタイル維持してるもんね。なら、ふみすけちゃんも大丈夫♪」
 小さい子をあやすような言い方でふみちゃんの頭を撫でました。ふみちゃんはシンデレラが味噌カツの魔法でマーメイドになる日を夢見ているキラキラした瞳でした。
 音楽が鳴り、監督らしき人が拡声器で立ち位置などを指示していきます。曲はヤオちゃんの一番人気の曲で、タイトルは『エターナル・シックスティーン』で、本当にそのまんま永遠の十六歳でした。他のエキストラ女性の話では、この曲を八百回聴くと若返るという噂が密かにファンの間で広まっているらしく、どんどん再生回数が増え八百万回を突破したらしいのです。でも、曲を聞くと若返るなんて――元気になるとか癒されるならわかりますが、若返るというのはちょっと不思議な感じがしました。
 エキストラの役割は、ヤオちゃんが歌いながら飛んだり跳ねたりする後ろで目一杯はしゃぐという単純なものでした。ヤオちゃんに手を振ったり隣りの人とおしゃべりしたり楽しそうなら何でもいいという大雑把な指示で、監督は主役のヤオちゃんに動きや振付など指示を出し、三台のカメラがいろんな角度からヤオちゃんのきらめく笑顔を追いかけました。
 ヤオちゃんの歌唱力はすごくて、何でも昔あった小浜市の〝のど自慢〟的な地元イベントでNOKKOさんの『人魚』という曲を歌って十六歳で最年少優勝したそうです。ヤオちゃんの経歴も普通のグラビアアイドルと違って、お寺で尼さんをしているそうなのです。銀河さんは撮影の休憩時間にファンのビキニ女性たちと仲良くなり、そういう情報を聞いて驚き、わたしたちに教えてくれました。
「ねぇ、聞いて聞いて。ヤオちゃんて尼さんなんだってさ。でも、ボーズ頭にしてないよね?」
 ふみちゃんは首を横に振りました。
「銀河さん、違います。尼さんは坊主頭とは呼ばず剃髪(ていはつ)と言います。女性も頭髪を剃る方が多いですが、剃髪しない宗派もあると聞いたことがあります」
「へぇー、ふみちゃんはほんとそういうの詳しいね」
 感心する一方、ふみちゃんはより怪しむ顔になりました。
「……尼さんですか。これでますます〝人魚〟の肉を食べた可能性が高くなってきましたね」
 休憩時間にふみちゃんは日本の尼さんについてわたしに教えてくれました。尼さんは、戦後は三千人ほどいたそうですが、時代とともに減っていき、現在「全日本仏教尼僧法団」に加入している尼さんの人数は二五十名程度で、しかも高齢な方の割合が高くなっているそうなので、今後尼さんは消えてしまうかもしれない、という話です。
「ふみちゃん、何で減ってちゃったの? 出家が厳しいの?」
「いろんな理由があると思いますが、尼になりたい方が昔に比べて減ってるんだと思います。仏に身を捧げる一生を選ばなくなったんです。尼は経済的にも楽でないと言いますし」
「お坊さんって裕福なイメージあるけどね」
「それは檀家さんが多い寺院だと思います。尼さんはあまり檀家さんが増えないそうなので」
 ちょっと暗い雰囲気になってしまいましたが、銀河さんは首を突っ込んできました。
「ねぇ、ヤオちゃんのことをファンの子にまた聞いてきたんだけどね、ヤオちゃんは若い女性も尼さんをやってることを世間にアピールしたいんだって。なんか、おばあちゃんばっかりのイメージあるじゃない?」
 銀河さんの他人の輪への入り方は結構強引で驚きますが、ちょうどつながる話でした。ヤオちゃんはデビュー時は「尼さんがグラビアなんて」と蔑まれるのが嫌で隠してきたらしいのが、地元の人たちの応援もあり、最近は積極的に尼のことを表に出すようになったそうです。
 その後、順調に撮影が終了し、わたしたちの初めてのエキストラ出演は無事終わりました。スタッフの方々が列の整理をはじめ、なんとヤオちゃんが出演の御礼に福井名物の「羽二重餅(はぶたえもち)」をエキストラ全員に配ってくれました。ヤオちゃんの手作りらしく、ファンの人たちも盛大な歓声を上げ、きちんと列を作って受け取りました。羽二重餅がどんなものかわたしは知りませんでしたが、和菓子に詳しいふみちゃんは「羽二重餅は甘くてやわらかくて美味しいんですよ。お茶受けにぴったりです♪」とニコニコしていた。
 順番が来て目の前にしたヤオちゃんは、本当に永遠の十六歳という言葉がぴったりなほど、お肌がつやつやで瞳が輝いていて生き生きしていました。ヤオちゃんはわたしたちにどこから来たか聞いて、若狭湾に初めて来たと答えるとキラキラの笑顔を見せてくれました。
「今日は突然ありがとう! 若狭はいいとこでしょ? ゆっくりしていってね!」
「ヤオちゃんも頑張ってね! 尼さんのことも応援してます!」
 握手して、ちょっと美肌の秘訣を知りたいなーと思いつつ、羽二重餅をもらって御礼を言い、あやさんが待つパラソルまで帰りました。その後撮影の思い出を車中で話しながら、浜辺近くに予約してある民宿に向かいました。羽二重餅は手作りだし早く食べちゃおうと思い、ふみちゃんと一緒に開け、白くてしっとり甘い六枚入りのお餅をもぐもぐ食べ終わると、何だか元気になりました。というか、まるで赤ちゃんみたいにお肌がすべすべになったのです。
 わたしは不思議に思って自分の顔や手の肌を触ってみましたが、海に行って来たのがまるで嘘みたいにきめ細やかな肌になっていたのです。
「ねぇ、ふみちゃん、お肌がスベスベになったと感じない? ――あ、ふみちゃんはもともと赤ちゃん肌だっけ」
「英淋センパイ、違います。そんなに幼くないです!」
 ふみちゃんは唇をとがらせましたが、膨らんだほっぺをわたしはつつきました。銀河さんは甘いものは得意じゃないらしいですが、わたしたちが騒ぐので、興味深そうに羽二重餅を一枚だけ食べました。ただ、あんまり変わらない気がする、と残念そうに言いました。
「あら、銀河さんは甘いの苦手? もったいないね。もらっていいかしら?」
 あやさんは銀河さんから残り五枚の羽二重餅をもらって、運転中なのでちょうど長めの信号待ちをする間にパクッと平らげました。味のことより顔のお肌を触ってスベスベ感を確かめています。そして、あやさんは青信号になったのも忘れて大きな驚きの声を上げました。
「あれ……っ! 本当にお肌が若返った気がするわね。何これ、すごく不思議……っ!」
 ふみちゃんも気になって後部座席から身を乗り出し、あやさんの二の腕を触りました。
「あっ、ほんとスベスベだ!」
 なぜか助手席の銀河さんも面白がって一緒に触り、うんうんと目を丸くして頷きました。
「お母さん、これって何でなんだろう?」
 ふみちゃんが少し変わった聞き方をしました。すると、あやさんはちょっと考えごとをする間を置いて、ハンドルを握りながらわたしたちに言いました。
「あのね、みんな、民宿に着いたら晩ご飯までゆっくりしてて。私はちょっと調査に行きたいお寺があるから外出するわね」
「お寺……?」銀河さんが横から尋ねます。
「うん、お寺というか、まあ、目当てはお墓なんだけどね」
 旅行の合間にお墓参りなんて珍しいなとわたしは思いましたが、ふみちゃんは行かないのか聞いてみると、たぶんお母さんだけが調べに行くから大丈夫です、と言いました。そのうちに民宿に到着し、荷物を下ろして、濡れタオルで足や肌についた砂をふいた後、和室に寝転んでのんびりしながら夕食を待ったのです。

 あやさんは車で行ったのですぐに帰ってくるだろうと思い、戻るまで三人で冷房に当たってゴロゴロしながら、ずっと銀河さんの十六歳の頃の話を聞いていました。何でも高校一年生で友達百人を集めて富士山に登ったらしいのです。
「百人って、何でそんなにたくさんで行ったんですか?」
「それね、好きな人との約束だったの。百人集めて登ろうって話したんだ」
「えっ、銀河さんの好きな人って登山が好きだったんですか?」
「ううん、そうじゃないんだけどね、ほら、歌であるじゃない。いっちねんせいになったら~一年生になったら~友達百人できるかな~百人で食べたいな~富士山の上でおにぎりを~ってやつ。その人とあれをやりたかったの。まぁ、十六歳だから無茶がしたかったのよ」
 何だか思い出話が壮大過ぎて想像を超えてるし、あれって高校一年生じゃない気もしますが、そのときふみちゃんの携帯が鳴って、「あっ、お母さんです」とふみちゃんは出ました。それが夕食前にもう一度出かけることになったきっかけでした。

 あやさんが車で戻ってくるなり、みんな乗ってすぐ若狭湾の同じ場所に向かいました。実は夕方までエキストラ抜きでヤオちゃんは撮影を続けていることを銀河さんがスタッフの人から何気に聞いていたのです。あやさんは車の中で何を慌てているか話してくれました。
「あんなお餅を配ったら、ヤオちゃんのお肉が狙われるわ!」
 さすがふみちゃんのお母さんというか……説明が雑すぎてよくわかりませんでした。どうもあやさんはお墓を調べたことで、お肌が若返ったことの手掛かりが掴めたそうなのです。ただ、ヤオちゃんに直接聞きたいことがあると言って、撮影現場まで車を走らせたのでした。
 若狭湾に着くと、ちょうど夕焼けが海の向こうに沈み出していて、潮風と茜色の空が混ざり、最高の景色でした。撮影は幸い続いており、ロープが張られて見物客が立ち入りできないようになっていますが、ロープ内にヤオちゃんがいて、監督の指示を受けて愛らしい仕草で軽やかにステップを踏んでいました。あやさんは車を降りるなり浜辺を走り、ロープより近づけないとたぶんわかっていたと思いますが、行ける一番近い場所まで行きました。わたしたちも事情が十分飲み込めないまま遅れないよう追いかけました。
「ヤオちゃんと話がしたいの!」
「お姉さん、無理です、無理ですって! 今は立ち入り禁止の撮影中なんです!」
 あやさんの見た目が若いので、止めたスタッフの人に〝お姉さん〟と呼ばれちゃってますが、それは気にせずあやさんは首を横に振りました。必死に何とか話したいようでした。
「聞いて! だって、これ以上メディア露出を増やしていくと、ヤオちゃんのお肉を狙おうとする危険な輩(やから)が増えるのよ! 目立っちゃダメ! もっとひっそりしてないと!」
 お肉のことはわかりませんが、グラビアアイドルに目立たずひっそりしているよう言うのは難しい気がしました。もうファンも大勢いますし、動画を何回も見ると若返るという不思議な噂もあるくらいです。わたしもせっかくだから動画を見たいくらいでした。それくらい女の子は若さを保つとか若返るとかのフレーズは気になって仕方ないものなのです。
 とにかくスタッフの方があやさんの訴えを聞き入れず、あやさんも困り果てて意気消沈していると、監督が撮影を一旦止め、ロープまで歩いて来て、あやさんに強硬な態度を向けました。これはあやさんが監督に怒られると思い、わたしは身が固まりそうでした。監督はサングラスをつけたままいきなり話しかけてきたのです。
「……お姉さん、ヤオの体のことをご存知なんですか?」
 意外にも怒鳴られることはなく、むしろ恐いくらい物静かに質問を投げかけてきました。
「小浜出身、永遠に老けない十六歳、尼さん――これだけ揃えば、わかる者はわかります」
 あやさんは毅然とした態度で監督に向き合いました。
「そうですか、その辺りの伝説をよくご存知なんですね。それで、ヤオの肉が狙われるということですが、もちろん、我々は――それをわかっています。しかし、グラビアアイドルになりPRをしたいというのが、ヤオの強い願いなんです」
 監督はまっすぐ胸を張って答えました。あやさんは眉間にしわを寄せます。
「それでも私は……いろんなリスクを考慮し、彼女はひっそり暮らすべきだと思いますよ」
「では、ちゃんと事情をご説明します。撮影を休憩させますので、テントへお入りください」
 あやさんと監督以外ポカンと口を開けて話が飲み込めない状況でした。いや、その中でふみちゃんだけは少し理解しているようでしたが、撮影は本当に休憩に入ったのです。
 ロープ内に撮影用に立てられたテントに四人とも通されて、わたしは事態が掴めないまま、ただあやさんの後ろに恐る恐るついていきました。いつもは自由奔放な銀河さんもこのときは冷静で、中学生のわたしやふみちゃんを護るような感じで並んで歩いてくれました。
「……ふみちゃん、この後どうなるんだろう?」
「英淋センパイ、私もお母さんの意図がわからないんです。あと、監督さんが何を話したいのかも……。大人しくついていくしかないですよね」
 そんな不安を囁き合いながら、テントに入ってイスを勧められると、冷たいジュースが出てきました。歓迎とは言いにくいですが、険悪な雰囲気ではないので少し安心しました。監督はサングラスを外して温厚な目を見せてくれた後、バッグからファイルを取り出しました。
「ご足労いただき、感謝します。えっと……お姉さんは」
「出雲です。出雲あやと申します。この子たちの保護者です」
「えっ、随分お若いですが――あ、そうか、ヤオの羽二重餅を召し上がったんですね。これは失礼いたしました。さて、本題をご説明いたします。竜宮ヤオ――彼女がなぜ『絶対老けないビキニアイドル』と言われるかですが、この写真を見ていただけますか?」
 監督は数枚の写真を並べました。昭和以前に撮られたような古い白黒写真で、この若狭湾の海岸と似ていて、なんとそれにヤオちゃんそっくりの女性が水着姿で微笑んでいました。
「んっ、あれ? これ、ヤオちゃん? ……の、おばあちゃん? もっと昔?」
 銀河さんが横から首を突っ込んで監督を質問攻めにしました。すると、監督が何か言う前にあやさんが訂正しました。
「銀河さん、違うのよ。私がさっき調べたお墓というのは、不老不死の伝説がある場所なの。つまり、これはヤオちゃん本人なんだと思うわ。そうでしょ?」
「――はい、そうです」
 その声に驚きました。監督の後ろになんと竜宮ヤオちゃん本人が立っていて、タオルで汗をふきながらキラキラ輝く美しい瞳でわたしたちを見つめていたのです。
「ヤオ、君は休んでていいんだぞ」
 監督は振り返って言いましたが、ヤオちゃんは静かに腰かけテーブルに着きました。
「その写真は正真正銘、私です。戦前、この海で写真家の方に撮ってもらったんです」
「初めまして、竜宮さん。じゃあ、八百比丘尼(やおびくに)の伝説は――」
 あやさんは口元を手で押さえながら、少し興奮気味に耳慣れない言葉を出しました。
「はい、本当にあるんです。なぜなら、私が百年間変わらぬ姿で生き続けてるんですから」
 ヤオちゃんは純真な笑顔を見せました。というか、わたしは今とんでもないことを聞いちゃいました。アイドルの気になる美肌の秘訣とか、そんなレベルの話ではなかったのです。
 あやさんはふうと深い溜め息をつきました。
「ヤオちゃん、私も中途半端なことは言わないわ。ここに来る前、小浜男山(おとこやま)の空印寺(くういんじ)の洞窟にある、あなたの先代のお墓も見に行ってきたの。実はこっそりお墓の石を動かして、墓の下にあるはずの〝砂〟を確かめてきたんだけど、入れ物はあったけど、なぜか中身が消えていたわ。ねえ、ヤオちゃん、あなた――いつ八百比丘尼になったの? さっきの写真を見る限り、戦前のことみたいだけど……」
 お墓の石を動かした……だって……? いきなり洞窟、お墓、砂と、いにしえの伝承みたいな言葉がいくつも出てきました。誰も口を挟むこともできず、物知りなふみちゃんすらもお母さんの話に驚きながら聞き入っています。ヤオちゃんは感心するように息を飲みました。
「すごい……そこまでご存知なんですね。出雲さん、でしたっけ。若狭の生まれの方ですか?」
「いえ、生まれは愛知ですが、ちょっとこういう話が好きなもので、調べたことがあるんです。今日は娘と友達を連れて旅行に来ました」
「そうですか。では、誤魔化しても意味がないですね。全部お話ししましょう。そして、今後私がどう生きていったら良いのか、どうか相談に乗ってくださいませんか? お察しの通り、私は不老不死伝説の人魚、八百比丘尼の先代が大昔に砂と化したものを――実は煎じて飲んでしまいました。そのときは切羽詰まった状況だったのですが、今はとても後悔しています」
 その瞬間、監督はガタッと体を動かし、ヤオちゃんに詰め寄りました。
「ヤオ、どう生きるか相談するって、この人はさっきお前のことを『ひっそりと暮らすべき』と言ったんだ。グラビアアイドルを辞めても構わないのか? お前が望んだ道だろ?!」
「監督、ありがとう。でもいいの。ちゃんと相談できる人に包み隠さず全部話して、それでもひっそり暮らすべきだったら、そうする覚悟はあるのよ」
「ヤオ……だけど、今までせっかく隠し通してきたじゃないか……」
「お言葉ですが、監督さん、不老不死なんて隠し切れるものじゃありません。永遠の十六歳とか永遠の十七歳とか、アイドルなら通じると思われるかもしれませんが、いつか不幸な結末を迎える危険性を孕んでるんです。彼女の肉を怪しみ狙う輩はきっと現れます。ただ――」
「ただ?」ヤオちゃんは問い返しました。
「あなたの行いが、ただの自己PRには思えないの。まずは砂を飲んだ事情を聞かせてくれる? あなたも話したいんでしょ?」
 ヤオちゃんはこくんと深く静かに頷きました。
 そこから溢れ出す経緯説明は驚きの連続でした。ヤオちゃんは明治生まれで、細かく言うと明治三十三年、西暦一九○○年にこの小浜に普通の女の子として生まれたそうです。十六歳を迎えた一九十六年、つまり今からちょうど百年前にある出来事が起きた、と語りました。
 わたしは歴史にあまり詳しくないのですが、ヤオちゃんの補足では、一九十六年というのは二年前に第一次世界大戦が起き、まだ終わっていない時代だったそうです。ヤオちゃんの父親は陸軍兵だったそうですが日露戦争ですでに戦死しており、お母さんの手で育てられたものの、お母さんが重い不治の病にかかってしまい、町の医療施設でも手立てがなく万策尽きたとき、ヤオちゃんは唯一の家族であるお母さんをどうしても救いたくて、空印寺の洞窟に忍び込み、不老不死伝説の八百比丘尼の墓をあばいてしまった――と静かに告白しました。
 八百比丘尼というのは人魚にまつわる伝説でした。大昔、若狭のある長者が夕食に招かれ、そこで半身が人で半身が魚の「人魚」の肉が振る舞われ、誰も箸を付けなかったものの、長者の娘が好奇心からその肉を全部食べてしまい、娘は不老不死になったそうです。娘は悔やみ、尼となって全国行脚を行い、八百年後に小浜に戻ってきて、「ここで死にたい」と願い空印寺の洞窟に身を横たえ、ついに八百年を経た娘の体は砂と化した、と言われているそうです。
「その砂を煎じて飲ませるなど、誰もしてはいけない禁忌の法でした……」
 ヤオちゃんは百年前の当時を思い出すように唇を噛みました。でも、もし自分のたった一人の家族が難病にかかり、救えるかもしれない究極の方法を知ってしまったら、わたしだったら自分を止めることができるだろうか。わたしは胸が張り裂けて潰れそうでした。
「でも、決意は揺るがず、いざ母に飲ませる前に、私が――試し飲みをしたんです」
「なるほどね、お母さんのために毒見をしたわけね」
「はい、母は病床に伏し、いまわの時を迎えようとしていましたので、私だけが空印寺に行きました。そして……あの魚粉が混ざったような砂を湯に入れて飲んだ時、死ぬかと思うほどの強烈なめまいがして、私は正気に戻りました」
「正気に?」
「はい、よく考えてみれば、不老不死の法は治療薬ではありません。もちろん、伝承には確証も反証もないのです。ただ、もし母が不治の病を抱えたまま死ねない体になってしまったら、もっとつらいことになると想像したら、急に恐ろしくなってしまって……追い込まれて禁忌に手を出してしまった自分を恥じ、母には飲ませず、治癒を諦めて看取ったのです」
「私も……何とも言えないわ。結果的には正解だったかもしれないわね」
 あやさんが慰めると、ヤオちゃんは告白を続けた。
「不老不死の力が本物だと気づいたのは、母の心を安らげようと、母に教わった歌を歌った時、母の肌が見る見ると若返ったことでした。……残念ながら歌に病を治すほどの力はなかったのですが、それでも肌つやが良くなり笑った母の顔は本当に嬉しかった。永遠に忘れられません。そして、老いを止める力が自分に宿ったことを悟り、受け入れたのです」
 ヤオちゃんは一言〝受け入れた〟と言いましたが、相当な葛藤があったように思えました。
 だって、永遠に死なない体になったら、一緒に楽しいこと苦しいことを分かち合った家族や友達とも死に別れ、自分だけ生き残っていくことになるのです。人間らしい生活を送れるのか、心の安定は保てるのか、不安は尽きません。大昔の八百比丘尼が八百年間も故郷を離れて全国を旅して回った気持ちが少しわかるような気がしました。今までと同じ環境では生きていけない、すべての人の普通の死を見送るしかない、そんな生き方は恐ろしくて恐ろしくて心が悲鳴を上げて張り裂けそうでした。
「英淋センパイ、顔色が良くないですよ。聞くの止めて休みますか?」
 ふみちゃんがわたしを気遣ってくれました。恐ろしいけれど、ヤオちゃんが選んだ生き方を最後まで聞きたい、そう思って「うん、大丈夫。聞けるよ」と何とか笑顔で答えました。
 それから、監督が神妙に口を開きました。
「彼女は十年くらい前、小浜の『のど自慢大会』に出場し、十六歳で抜群の歌唱力で見事優勝したのですが、その後、事務所へ誘い、歌を歌ってもらうと、審査したスタッフみんなの疲労が消え、活力が溢れ、肌の色つやもきれいに若返ったんです。そのとき思ったんだ。この子は今の日本に絶対必要不可欠だと。最初はまさか人魚の力とは思わなかったが、落ち着いてから彼女から事情を話してくれました」
「……監督さん、信じたあなたもすごいですね」
 あやさんは眉をひそめました。確かに普通の感覚では受け入れがたい話です。けれども監督は臆することなく堂々と胸を張って返しました。
「八百比丘尼は年寄りから聞いたことがある昔話です。信じるか信じないかはその人次第だし、まあ、大半の人は信じないだろうと思いますが、この業界で〝老けない〟のは最高の武器です。どれだけのタレントやアイドルが一生かけて〝老い〟と戦っているか。そして、どれだけの人が老けない有名人に羨望の眼差しを向けることか。人魚の力でも何でもいい、彼女自身がこの業界で生きることを望むなら、それはもう個性であり武器であり、宝物なんです。不老不死を得た業がどんなものであろうとも、彼女は――何も悔いることはない」
 これが、この監督がヤオちゃんのグラビア活動を支えている想いなんだろうと感じました。せっかく宝物を持っているんだから、それを生きる意味にすればいい、とそんなふうに聞こえました。ヤオちゃんは嬉しそうに横で監督の言葉を聞いていて、少し涙ぐみました。
「あのとき、母を助けたかったとは言え、墓をあばき禁忌を冒したことは確かです。だから、罪滅ぼしがしたくて、仏門に入って尼となり御仏の教えを学び、若い女性たちに人との絆や、苦境でも自分のできることを見つめ明るく生きる楽しさを伝えていきたいのです」
 あやさんは真摯に語る二人に、もう厳しい言葉を掛けることはありませんでした。
「ヤオさん、支えてくれる人がいて、あなた、幸せね」
「はい、監督だけじゃありません。私の法話を聴いてくださる方々、地元で支援してくださるファンの方々、そして最近では動画で私のことを知り応援してくださる大勢の方がいるようになりました。私には〝夢〟があるんです。いつか私はかつての八百比丘尼のように撮影で各地を巡り、尼僧として女性たちの心の病を聞きながら、歌によって、いつまでも若くありたいという女性の願いに力を使いたい、と思っているんです」
「歌……そうね、あなた人魚の力があるもんね」
 あやさんはにっこり微笑みました。ヤオちゃんは永遠に十六歳の素敵な人魚で、母想いで、誠実に向き合ってくれる協力者がいて、地元に愛されていて、頑張っていけばいつか全国各地で愛される人になるかもしれません。そんなヤオちゃんは少し得意気に続けました。
「実は、歌の力は聴いてもらうだけじゃないんです。昼間みなさんに配った羽二重餅ですが、あれは作っている間に私が歌の力を込めているんです。微量なのでもちろん不老不死にはなりませんが、若さを保つ効果があるんですよ」
 そうか、あの羽二重餅を何枚も食べたわたしやあやさんはお肌スベスベになったわけです。でも、正直少しドキッとしました。八百比丘尼の伝説を聞いた後では、微量と言っても特殊なものを体内に入れたわけで、漠然とした不安に包まれました。あやさんはヤオちゃんに対して声を抑えて言います。
「ヤオちゃん、あなたは罪滅ぼしとして一生懸命やっているでしょうが、命の摂理に抗おうとした『強欲』の大罪は、この先まだ何百年と消えることはないと思います。そして、罪滅ぼしの名目で多くの人を巻き込んでいるのです。言うなれば、それは――あなたのエゴです」
 あやさんは、監督をはじめ銀河さんやふみちゃんやわたしを見渡しました。
「はい、そうでしょうね……そう思っています」
「でも、もう一つ――あなたは若い人たちに尼さんのことをもっと知ってもらいたい、という願いも持っています。尼僧は甘い道ではありません。人の心の闇を抱き止める、ということは相手のどんな苦しみも投げ出してはいけないのです。かつて、あなたがお母さんの命を無謀に長らえることを最後は断念したように、すべて救える、すべて何とかなる、とは限りません。そんな強欲さではまたいつか悔やむ日が来ます。ただ――」
 そこであやさんは一呼吸を置きました。ヤオちゃんは真剣に聞き入っていて、若狭の海岸は燃えるような夕日に大きく見守られていました。あやさんはすっと笑みを向けました。
「あなたがそれだけの重い罪を抱え、なお前向きに生きる意味を問う人だから、生き方に悔いのある女性を一人でも多く救えるはず、と私は確信します。たくさん話してくれてありがとう。ヤオさん、あなたの夢を応援してる。あなたの羽二重餅も、とっても美味しかったわ。でも、一つだけ言っておくからね。あなた以上に強欲な人にはちゃんと注意してね、約束よ」
「はい、約束します。無謀なことはせず、つつましく自分の身を大事にして、元気に頑張っていきます。出雲さん、私、もう百十六年も生きてるんですが、今日が生きていて一番の日です。本当です。あなたに会えて、最高の一日になりました!」
 ヤオちゃんは目を潤ませていました。隣りの監督も目頭を押さえています。
「出雲さん、こういうのをヤオ本人の前で言うのはお恥ずかしい限りなんですが、百年もの間、親がいなかったこの子の親代わりをしてやってる気持ちなんです。カメラを向けて、この子のいい笑顔を撮りたいなんてのは、もうね、まったくただの親心なんですよ」
 顔を手で包み、泣いているのか笑っているのか、でも、胸の奥に溜め込んでいた何かを吐き出せたような晴れやかな顔が夕日に赤く照らされていました。あやさんも頷き返します。
「監督さん、私、あなたの考え、とっても素敵だと思いますよ。どうか、これからもヤオさんを娘と思って大事にしてあげてくださいね」
 すると二人は深くお辞儀をし、長い休憩を終えて、気合いを入れ直すように目を合わせると、プロモーション映像の撮り残しのシーンを撮ると意気込んで、テントを出ていきました。

 スタッフに送られて車に戻り、あやさんが民宿へ帰る電話を入れた頃には、夕日は海岸線に完全に沈み、宵闇が訪れて潮の音が少し強くなってきた感じがしました。
 車が走り出しても、わたしはまるで夢物語を聞かされたような気分でした。伝説の人魚の砂を飲んで百年以上生きている女の人とさっきまで話していたなんて、普通では理解できません。でも、十六歳で親を失い生き続けたヤオちゃんと、親代わりに支える監督と、それを全部包み込むようなあやさんの厳しさと優しさがただただ胸に刻みつけられていました。
 わたしは一つだけ気になるのは、八百比丘尼の力がこもった羽二重餅を食べて大丈夫だったのかということですが、運転中のあやさんに聞くと、
「越前蟹、ソースカツ丼、鯖江の眼鏡と同じく福井名物みたいなもんだから、心配ないわよ!」
 と笑いました。眼鏡が福井名物と聞いてすぐ数井くんの話題になり、銀河さんが冗談半分で「あの子の眼鏡はよく壊れるらしいからさ、ヤオちゃんの歌声をたっぷり眼鏡に聴かせたら、永遠に壊れない眼鏡になるかもね」と言い、ふみちゃんも一緒に笑っていました。

 その後、若狭旅行から帰り、数週間経ってヤオちゃんの新しいPVは完成し、動画サイトにアップされると、あっと言う間に八百万回再生を超えました。一応わたしたちが写ってるのをチェックしましたが、ヤオちゃんのかわいさと銀河さんの胸の揺れがすごくてそれどころではありませんでした。それと、今回のエキストラ出演のことは屋城くんや数井くんには内緒です。だって、ビキニ姿を見られるのは恥ずかしいし、何かもういろいろ濃い体験だったので。
 だから、お土産として生徒会室にそっと普通の羽二重餅を置いておいたので、男子二人への報告はそれでおしまいです。
 あと、せっかくなので、ふみちゃんと竜宮ヤオちゃんの歌を何曲か覚えて、一緒にカラオケに行くことにしました。もちろん代表曲の『エターナル・シックスティーン』は外せないし、若狭湾で撮影した新曲の『ウェルカム・オバマ!』だって当然PVで予習していきます。あの不思議な話の通り、ヤオちゃんの歌と映像を繰り返し見る度に、若さが湧き出すような感じがしました。美しい透明な海と、潮の香りが記憶に蘇ります。
 PVと別動画で、撮影後のワンカットがあり、ビキニのヤオちゃんが底抜けにスッキリ顔で、
『これからも永遠の十六歳として輝いていきます! ずっとずっと応援してね!』
 とファンのみんなに満点の笑顔で手を振っていました。これを監督が親の気持ちで編集して完成させたと思うと、わたしは少し温かい心になり、これから何百年生き続けるかわからないヤオちゃんに「ファイト!」とエールを送りました。

(了)


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新潟妖怪奇譚 雪夜の赤子攫い

 冬の新潟は、想像以上に雪深かった。
 二月二日、「夫婦の日」だと言われるが、出雲主馬(かずま)と出雲あやの夫婦はそれどころではなかった。本当なら翌日の二月三日に一歳の誕生日――初めての誕生日を迎える一人娘のふみのために、家でのんびり誕生日会の準備をしているはずだったが、あやの親友から緊急の電話が入り、一大事が起きてどうしても来てほしいというので、主馬の運転する車で高速道路をひた走り、新潟の魚沼市までやって来たのだ。あやは助手席で娘のふみを抱っこしている。関越自動車道は関越トンネルあたりから一帯は大雪で、新潟県に入るとまさに猛吹雪だった。温泉で名高い湯沢を通過し、魚沼で一般道に下りて、親友の嫁いだ家に急いだ。
「……あや、ふみは寝たのか?」
「うん、お乳飲んで寝てる」
「そうか、お前もふみも寒くないようにしてな」
「うん、大丈夫。準備してきた」
 主馬もあやもまだ二十代半ばの若い夫婦で、初めての子供だ。親友の一大事という緊迫した状況で夫婦の間に短い会話しか出ないが、それでも互いを信頼し合う絆があった。
 親友の家に無事着くと、家族や警察が入り混じっての大騒ぎになっていた。一瞬自分たちは関係者じゃないから某探偵少年みたいに都合よく入れないかと思っていたら、親友が大粒の涙をこぼして家の中から飛び出してきた。あやがさっき到着を知らせるメールを送ったのだ。
「妙(たえ)ちゃん、いったいどういう騒ぎ?!」
 親友の名は越野(こしの)妙といった。あやは妙から昨晩電話が来た時にあらましは聞いていたが、妙は気が動転していて要領を得なかったので、思い切って車で直接来て正解だった。ちょっとした友達の相談事レベルではない。明らかに何らかの事件が起きている。
 外の寒さはきついので、妙はすぐ家の中に入れてくれた。警察がいると言っても家族の知人の顔をしていれば普通に入れたので、灯油ストーブが効いた温かいリビングに通され、主馬とあやはコートを脱いだ。妙の旦那さんが熱いお茶を入れてくれる。顔は蒼白だが、彼は妙から出雲夫婦が何者なのか聞いている様子だ。妙は赤い目を拭いながら事情を話し始めた。
「一回話したと思うけど、うちの子が、昨日の晩……忽然と消えちゃったのよ」
「……ひかりちゃん、まだ見つからないのね? どれくらい探したの?」
 あやは落ち着いて尋ねる。ひかりは妙の娘の名前だった。妙は嗚咽混じりに必死に話す。
「き、昨日の夜もいっぱい探したし、け、今朝もいっぱい探したし、家の中は全然いないし、ご近所とかにもいないし、恐くなって警察にも連絡を入れたの」
「でも――電話だと、警察じゃどうにもならないかも、って言ってたじゃない」
「うん……だ、だって、ヤサブロバサに攫われちゃったんだもん! あたし昨日の夜、見たの!
吹雪の中を飛んでいく白髪の鬼婆を! もう、絶対食べられちゃう!」
 大泣きしながらテーブルに突っ伏して、どぅわああああ……と激しく悲嘆の声を上げた。 
 ヤサブロバサ――主馬は初めて聞くものだったが、あやは大学で妖怪の研究をしていた頃に少し調べたことがあった。ただ、ここでヤサブロバサの説明を情緒不安定な妙から聞いている暇はない。むしろそれを知っているという理由で、あやは親友に助けを乞われたのだ。詳しいから解決できるとは限らないが、今日は自分一人でなく由緒ある厄除け神社の神主をしている主馬がいる。主馬と一緒なら何かできるかもしれない、そう信じて馳せ参じたのだった。
「妻は確かに見たって言ってるんですが、その……吹雪の中を飛ぶ老婆なんて、嘘みたいな話ですよね。もうどうしたらいいのかと……」
 旦那さんが口を開いた。あやもその気持ちはよくわかる。普通の感覚ではついていけない。
「まあ、子供を攫う鬼婆の伝説は日本各地にありますが、【飛行タイプ】は珍しいですね」
 あやは腕を組みながら答えた。
「飛行タイプ……」
 旦那さんがそう言って口ごもったので、あやは再び妙の目を見た。激しく動揺はしているが、正気ではある。妙は幼い頃から特殊な感受性があって、不思議なものを見る力があるそうだ。それであやと同じ大学に入ってきて、一緒に妖怪を分類調査研究して親友になったのだ。実はあやも似た感受性があったが、娘のふみを産んでからそれが何となく薄れつつあった。しかし、今は妖怪調べに共に青春を費やした大切な親友のため、吹雪の中を突き進まなければならない。もう出雲夫婦の覚悟はとっくに固まっていた。
「妙、あなたはここで赤ちゃんが帰ってくるのを待っていて。気をしっかり持って旦那さんや警察に協力してね。大事な役目だからね。わたしはこの相棒とともに――ヤサブロバサを絶対探し出してくるから!」
 ねっ♪ と勝ち気な笑顔で振り返ると、主馬はにこっと微笑み返した。
「ああ、一刻を争う事態だな。やれるだけのことをやろう。老婆が吹雪を飛ぼうが跳ねようが関係ない。赤ちゃんを母親の胸の中に取り戻す。それだけを願って力の限りを尽くそう!」
 威風堂々と言い放つ主馬の厚いセーターの胸には『愛』と大きく漢字が書かれていた。

 警察は誘拐事件の疑いもあるとして捜査を始めているそうだが、手掛かりはまだなく、そちらの対応は妙と旦那さんに任せて、出雲夫婦は車の中で自分たちの行き先について話し合った。主馬は神主として日本の神々や厄除けの神具や護符の類いは精通しているが、ヤサブロバサのことは十分知っているわけではない。あやはふみにお乳を飲ませながら、ヤサブロバサがなぜ飛行タイプかを話した。ふみは窓の外の吹雪を気にせず嬉しそうに飲んでいる。
「ヤサブロバサは弥三郎(やさぶろう)の婆さまと書くの。吹雪の夜に来て、悪い子をつれていく、という子供のしつけみたいな感じよ」
「ひかりちゃんが悪い子だってのか?」
「夜泣きはよくするって聞いたけど、赤ちゃんだし悪い子ってことはないと思う。問題は婆さのほうにあるわ。同じ新潟県内でもヤサブロバサの話は、魚沼、長岡、柏崎、上越とかで結構違いがあるんだけど、魚沼に伝わってるものは赤子攫いで、しかも飛ぶのよ」
「飛ぶのはわかった。どの道そこは手を講じないといけない。で、何で鬼婆になったんだ?」
 主馬は飛行タイプに対して手を講じると言ったが、どう講じるのかあやは少し気になった。まあ、主馬と出会った際に災厄から助けてもらった時は、主馬は軽やかに跳躍して巨大な怪物を一刀両断したのだが、今回はこの吹雪だ。とりあえず考えるより主馬の問いに答えた。
「弥三郎ってのは山で狩りをする猟師だったんだけど、吹雪の山に入って帰らぬ人となって、奥さんは悲しみのあまり後追いで死んでしまい、乳飲み子とお婆さんが残されたんだけど、赤ちゃんもひもじさから死んでしまって、気が触れたお婆さんが赤ちゃんの死肉を食べてしまい、それを見つけた村人がお婆さんを村から追い出し、挙句の果てに吹雪に乗って飛び、村の子供を攫う鬼婆と化したらしいの」
「……相当危険だな」
「あと、南魚沼だと少し話が変わって、弥三郎のところのお婆さんが、孫がかわいいあまりに食べてしまい、それで鬼と化して弥彦(やひこ)へ飛び去った、と言われているの。しかも、こちらの鬼婆は改心して神仏、善人、子供の守護に尽くし、妙多羅天女(みょうたらてんにょ)になったという話が残ってるのよ」
「なるほど、天女か」
「そう。何で飛ぶのか考察していくと、妙多羅天女が多少関係している気がするのよね。どう、何か糸口が掴めそう?」
 あやは抱いているふみの満足げな笑顔を見つめた。母親になってわかったが、いかなる理由や怪奇現象であれ、自分のおっぱいを無心で吸う乳飲み子と一晩以上引き離されるなんて身を裂かれるのも同然だ。妙の心中の乱れ具合はきっと周囲が想像する以上だと思うのだ。
「あやはどこへ一番向かうべきだと思う? 早く見つけないと鬼婆に赤ちゃんを食われてしまいかねない。だが、ヤサブロバサの伝説が残る新潟の各地を巡っている暇もないぞ」
「それなら、妙多羅天女が祀られている弥彦村の宝光院に行きましょ。だって、ヤサブロバサは改心したはずなんだもの。どうして再来したのかを突き止めないと」
「よし、すぐ向かおう」
 主馬はハンドルを力強く握ると、ずっと止まない吹雪の中へと車を走らせた。

 魚沼から弥彦村は決して近くない。再び関越自動車道に入り、長岡ジャンクションから北陸自動車道を通った。高速道路とは言え、雪道で速度は上げられないし、赤ん坊のふみを乗せている。慎重な運転で、一般道へ下りて海沿いの弥彦山をめざした。屋根も田んぼも畑もみんな真っ白な雪に覆われ、雪国の景色が低く広がっている。燕市の市街地を抜けると、弥彦山の峰が見えてきた。助手席であやが見ている道路地図によると、弥彦山の山頂ロープウェイの手前に弥彦神社や宝光院などがあるようだ。こんな吹雪でロープウェイが営業しているか不明だが、その手前で曲がり、雪かきされた民家のある小道を縫って、宝光院に到着した。
 こじんまりした閑静な寺院で、当然ながら境内に参拝客の姿はない。ふみをしっかり抱えて車を降り、二人は足元に気をつけながら石段を少し昇って境内を歩くとすぐ本堂だった。
 念のため護身用の護符を構えて本堂を覗こうとする主馬を、後ろからあやが呼び止めた。
「主馬さん、実はこの本堂はあんまり関係ないの。宝光院の裏山に『婆々杉(ばばすぎ)』っていう樹齢千年の巨木があるらしくて、そこがヤサブロバサの因縁が宿った場所なの」
「その杉はどういう因縁があるんだ?」
「何でも、ヤサブロバサはその木に悪人の死体を引っ掛けて見せしめにしたとも言われるし、その木の下で改心して妙多羅天女となったとも言われるの。木のそばには妙多羅天女を祀る祠もあるみたいよ」
 あやが語るのも書物の知識からの話なので、現場に来たのは初めてだ。主馬は頷く。
「ますます何かありそうだな」
 雪の中に小さな立札があり、足下を気を付けながら本堂の裏山を少し登った。すると、そこに確かに巨大な一本杉が吹雪に包まれ生えており、周囲をぐるりと石の柵で護られていた。立札を見ると間違いなくこれが婆々杉だ。そして、主馬とあやは一目で異変を理解した。婆々杉の太い枝が一本折れていたのだ。
「これって……自然に折れちゃったのかしら……」
「どうやらそのようだな。人や動物が折ったという感じがしない。雪の重みでもなさそうだし、枝が朽ちて折れてしまったのかもしれない」
 婆々杉の折れた枝は根元に落下していた。上に雪が積もり始めていて、放っておけば春まで埋もれてしまいそうだ。あやは落ちた枝に近づき触ろうとすると、突然背筋に悪寒がした。
「ふみゃああああああっ!」
 二重に驚きが走った。胸に抱っこしていたふみが激しく泣き出したのだ。ふみはもちろんこの名前が先だが、偶然か「ふみゃあ」とよく泣いた。それはともかく、ふみは寒さや不機嫌さが相まって顔を真っ赤にして泣いたのかと思ったが、両目をハッキリと見開いて、手は空中を指差していたのだ。主馬も尋常ではない妙な気配を察知し、咄嗟にふみを囲んでくれた。
「あや、何かふみがおかしいぞ!」
「これって――やっぱりふみの感受性が鋭敏になってるの?」
 乳児の愛娘に見えて力が薄れる母には見えない何かがあるのか。あるとすれば探るしかない。
「ふみっ! どうしたの?!」
「ばあば、ばあば!」
 その口から発せられた説明は単純明快だった。間違いない、老婆が上空を飛んでいるのだ。こんな吹雪の日に飛行する老婆など、ヤサブロバサ以外にいるはずがない。ふみの指先が指す方向を見ると、婆々杉から近くの阿弥陀堂へと動いた。
「主馬さん、そこの阿弥陀堂へ入りましょ!」
 合点承知! という眼差しで主馬は阿弥陀堂のほうへ駆け下りた。標的の場所さえわかれば、主馬は手を打てる算段があると見える。あやも急ぎたかったが、ふみを抱えて転倒するわけにはいかず慎重に道を歩きながら阿弥陀堂へと辿り着いた。ふみはまだ「ばあば、ばあば!」とわめいている。赤ちゃんには極めて危険な相手なので、静かにさせようと背中をポンポンして落ち着かせ、ようやく泣き止んだ。前を行く主馬の背に声を掛ける。
「ヤサブロバサは夜飛び回るから、昼間はここに身を潜めてるのかもよ」
 そのときだ。先んじた主馬が阿弥陀堂の戸を開けると、なんと中から別の赤ちゃんの泣き声が漏れ聞こえたのだ。ふみとは違う声だし、ふみはもう静かになっている。参拝者の姿はない。こんな吹雪の寺院で赤ちゃんが泣いているなんて、どう考えても普通じゃない。
 主馬は急がずあやを待って、一緒に阿弥陀堂の中に踏み込んだ。主馬とて万一に備えて護符を構えているが、諸説あって対策の定まらない得体の知れない初見の相手だ。赤ちゃんの声が気になって仕方ないが、それでも慎重にならざるを得なかった。
 お堂の中は暗いが、雪明りでぼんやりと本尊の阿弥陀如来像が浮かび上がり、左に妙多羅天の額らしきものが見えた。さらに妙多羅天女の像が置かれ、子供の守り神として長年信仰されてきたと見え、黒っぽく変色して歴史を感じさせる趣だ。出雲夫婦は暗さに目を慣らしながら泣いている赤ちゃんの姿を探した。お堂の隅に――白髪の老婆が着物姿で座っている。
 ごくり、と生唾を飲む。迂闊に踏み込めないほど空気が張り詰めていた。
 お堂は屋根があり窓も閉まっているのに、中はなぜか外と変わらないほどの凍てつく寒さで、白髪の老婆はそれより冷たい目をして、入ってきた若い二人を見た。老婆のそばには赤ちゃんが横たわり泣いている。老婆は枯れ枝のような細い手で赤ちゃんの頬を撫でていた。それでもまったく泣き止まないのは、手が雪のように冷たいからでは――と勘繰りたくなる。
『……お前さんたち、護符を持っているね。あたしを祓いに来たのかい……?』
 老婆が口を開いた。主馬は懐に忍ばせた護符を握り締める。見てもいないのに見抜かれるとは――人間ではないかもしれない、と直感した。二人が黙っていると、老婆は続けた。
『年でさ、腕が一本折れちまったんだよ。治そうと思ってさ、人の里からかわいい赤ん坊をもらってきたんだ。もう何年も人の親のしつけを手伝ってきたんだ。多少は構わんだろ』
 本当に老婆が口でしゃべっているのか、あるいは頭の中にこだます幻聴のようなものなのか、出雲夫婦は思わぬ事態に息を詰まらせていた。端的に言えば、ヤサブロバサが見逃せと言ってきたのだ。だが、あやは相手が天女だろうと人喰い鬼婆だろうと退かない覚悟だった。
「いいえ、その赤ちゃんは連れて帰ります。生きて母親のところに返します!」
「あや……ああ、そうだな! 何としても取り返そう!」
 主馬は震えるあやの肩を逞しい腕で抱いて支えた。あやの勇気が一層高まる。
『――ほう、それが、あたしを弥三郎の婆アと知っての返事なんだね?』
 老婆はのっそりと立ち上がった。腰は曲がっているが、その細い体から猛吹雪が巻き起こり、戸口のほうへビュウビュウとうなるように吹き出してくる。この吹雪は一体どこから来るのか得体が知れない。顔や服が雪に覆われ、あやは抱いているふみを必死で雪から守った。ふみもさすがに鼻を赤くしてふみゅふみゅとぐずり出しそうになっている。すると、目の前に主馬の大きなコートの背が現れ、吹雪を遮ってくれた。あやは嬉しくて寒さをぐっと我慢する。
「婆さま、貴女は一度改心し妙多羅天女になったそうだが、その心はどこへ隠してしまわれた。どうか、ここで赤子を返し、退いてはくれまいか?」
『護符使いの若い衆よ、何を血迷い事をぬかしておる。こんなかわいらしい赤子を得たわしがおめおめ返すと思うのか! 血の一滴も残さず喰らうに決まっておろう!』
 説得が全然通じない。徐々に老婆の語調も荒々しくなってきた。食事を邪魔しにきた苛立ちを明らかに含み、吹きつける吹雪の強さも上がり、主馬も口元や指先がかじかんできていた。先に我慢の限界に達したのは、守るものが多い主馬のほうであった。
「ならば、仕方ない。やれるだけのことをやるまで!」
 主馬は懐から護符を抜き、老婆に向かって突進した。だが、甘かった。ヤサブロバサは――飛行する。ひらりとかわすと無数の雪粒を吹きつけ、護符を凍らせ八方に散らした。
『何じゃそのヒラヒラの紙切れは。氷雪と突風の力を持つわしに敵うと思ったか』
 老婆は下卑た高笑いをする。完全に凍らされ床に散り散りに落下した護符を見て、主馬は眉を曇らせた。護符は対象に当てずとも、それで印を象れば秘めた力を発動させられる。だが、吹雪にさらされるとなると状況は圧倒的に不利だ。あやも主馬の武器が通じないことをすぐに悟った。しかし、老婆を封じなければ赤ちゃんは救出できない。ここまで来たら諦めず何とかするしかないのだ。
「主馬さん、もっと接近しないと――」
「いや……接近など、ヤサブロバサがさせてくれるわけあるまい……くそっ!」
 若い主馬は厄払いの秘術を熱心に修めて、それなりの自信を持っていた。だからこそ独力で奪還できると意気込み――いや、己の過信だったかもしれないが、いざ未知の存在に対峙して、足元で冷たく凍った護符を見つめ、苦虫を噛み潰すように立ち尽くした。そのとき、緊迫した空気にふみは怯え、ふみゃあああああとまた泣き声を上げた。あやは慌てて隠そうとしたが、この小さなお堂では音が響いてしまった。
『ほう、後ろの女、赤子を抱えておるではないか。ひっひっひっ、今夜はご馳走だわい』
 ヤサブロバサは赤子の肉を喰らって傷んだ老体を癒したいのだ。別の赤子が目の前にいれば狙うのは必然。あやは急いでお堂を出ようとしたが、足がかじかんで立ち上がれなかった。
 まずい、まずい! ヤサブロバサが手を伸ばして迫ってくる!
 すかさず主馬が振り向き、上級な護符をあやの肩に貼りつけた。間一髪、主馬の咄嗟の判断で間に合ったのだ。ヤサブロバサは結界を生み出した護符を睨みつけると、苦々しい顔で邪魔くさい主馬に猛吹雪を吹きつけた。主馬は十分な防御が取れず、お堂の壁まで吹っ飛んだ。
「ぐうっ……! この老婆、どこが朽ちかけなんだ。現役バリバリじゃないか」
 主馬は両腕の氷雪を払いながら体勢を直す。あやはふみを連れてきたことを深く後悔したが、車に置いておくことも難しい。近くの家に助けを求めて逃げ込むか。だが、その間にも確実に妙の赤ちゃんは老婆に喰い尽くされてしまう。恐ろしさで腰が抜けて動けない以上、もう穴熊のようにふみの身を守り続けるしかなかった。あとは――主馬だけが頼りなのだ。
『まったく鬱陶しい護符使いだねぇ。面倒だから、先に氷づけにしてしまおうか』
 老婆は氷雪をまとって天井を旋回しながら、主馬に狙いを定めた。主馬が崩されれば絶望的になる。氷づけ――氷に対し、何か有効な手はないのか。あやは一瞬パッと頭に浮かんだことを思わず叫んだ。
「主馬さん! 【氷タイプ】は【炎タイプ】に弱いはず!」
 あやは某モンスターバトルゲームの初代の世代なのだ。主馬とは一緒に某センターに行ったことがないから知らないかもしれない。それでも主馬はぐっと握り拳で応えてくれた。
「なるほど、そういうことか。それならすぐそばの弥彦神社にうってつけのものがある!」
 弥彦神社は確かにこの宝光院の近くだが、この状況で別の場所に行けるわけがない。
「や、弥彦神社に行ってる暇なんかないよ!」
「ああ――だから、ちょっと呼ぶんだ」
 主馬は護符を懐に戻し、違う札に持ち替えた。枚数が少ない、とっておきの『召喚符』だ。日本の神々や神の力が宿る物体を呼び寄せる特殊な符。相当な神通力を使うので多用はできないが、ここぞという時に全身全霊の力を振り絞るためにあるのだ。
『ひゃひゃひゃ、符術にいくら頼ろうとも、お前の力じゃわしは捕えられんわっ!』
 ヤサブロバサが息巻いて主馬に襲いかかる。だが、主馬は冷静だった。
「炎タイプか。それならこれだ! 我が切なる求めに応じて助け給え! いでよ、弥彦神社の『火の玉石』!」
 その瞬間、召喚符が燃え上がり、ヤサブロバサは思わず怯んだ。召喚符が起こす炎の輪の中から『火の玉石』と呼ばれた二つの大きな石が真っ赤に焼けて現れた。焼き石の熱がお堂の中の温度を上げ、吹雪の勢いを抑える。二個の石にはしめ縄がかかっており、あやはこんな主馬の大技を見るのは初めてで、夢でも見ているようだった。主馬は標的を颯爽と指差す。
「火の玉石、ヤサブロバサを捕えろ!」
 勇ましく主馬が命じると、火の玉石のしめ縄が勢いよく伸びてヤサブロバサの体に巻きついた。老婆の顔は熱く苦しそうに歪み、火の玉石がずしっと重石となって飛行力を奪った。しめ縄はきつく老婆の体にからみ、吹雪にも凍ることなく二つの石は赤く燃え続けている。
 すごい……っ! あやは形勢逆転の一手に驚き感心した。【飛行タイプ】でもある標的に対し、弱点を突く【岩タイプ】の攻撃を出したのだ。主馬は本当にあのゲームを知らないのか疑いたくなるほど完璧だ。天性のセンスを感じる。【炎+岩】で何倍もの弱点を突けたことになる。
『この若造があっ! 年寄りに重石を付けるとは何たる不敬! だが、弥彦の火の玉石ごときで吹雪は止まらぬ。二度と帰れぬようフルパワーで永久凍土の氷づけにしてやるわ!』
 そうだ、これはあくまで標的の動きを抑えただけ。ヤサブロバサは大きく息を吸い込んで、力を溜めた。大技を繰り出そうとしている。激昂し、引き下がる気配は一切ない。
「主馬さん! すさまじく強烈な吹雪が来るよ!」
「ああ、火の玉石だけじゃ倒せない。大丈夫、大技を出すために少し時間を稼いだんだ」
 そう返す主馬は、すでにもう一枚特上の『召喚符』を構え、準備を整えていた。
「これをやったら、一週間は何もできないほど神通力を使ってしまう。だが、今やるしかない。 我が切なる求めに応じて助け給え! 厄難除災の不動明王よ、光背(こうはい)に輝く聖なる御力、ここに拝借たてまつる! いでよ、『迦楼羅焔(かるらえん)』!」
 主馬の構えた『召喚符』が真っ赤な強い光を放ち、その中から燃え盛る光背が現れた。これは不動明王が背負っている焔で、炎に包まれた聖鳥ガルダが前身となった『迦楼羅』の火焔だ。というか、不動明王は仏教のはずだが、なぜ神職の主馬が召喚できるのか、一種の神仏習合なのか、とにかく細かいことを気にしている余裕はなかった。主馬は迦楼羅焔を呼び出すなり、自分の背にまとった。あやは唖然とする。【炎+飛行】タイプの最強技の予感しかない!
 そして、主馬は体の前で両手を鳩のように組み合わせ、鳥の形にして狙いを定める。それと同時に、ヤサブロバサは我を忘れたがごとく奇声を上げ、超ド級の猛吹雪を吹き放った。
『凍えて死ねええええっ!』
「煩悩に狂える吹雪を焼き払え! 火奥義、『迦楼羅天翔弾』!!」
 上から迫る超絶吹雪と下から昇る迦楼羅の火焔がぶつかった瞬間、お堂を吹き飛ばしそうな衝撃波が走った。もしこれが日没後であったなら、夜の力がヤサブロバサに加勢していたかもしれない。あるいは弥彦の火の玉石の重石がなければ、老婆の吹雪は完全にフルパワーだったかもしれない。だが、時は夕刻、火の玉石で捕えた老婆をめがけて、迦楼羅の火焔砲は吹雪を焼き破り、その老体を猛火で包み込んだ。老婆の悲鳴がお堂に轟き、火の玉石の重みによって床に落下した。あやは息を飲み、言葉が出なかった。壮絶な決着だったのだ。
 だが、老婆だったものは古い布きれと化し、高熱と火焔によってお堂の床が燃え出した。
「主馬さん! 床が燃えてる!」
 あやが思わず叫ぶと、主馬は余裕の笑顔で振り向いた。すでにさらにもう一枚『召喚符』を構えていたのだ。
「仕上げだ。我が切なる求めに応じて助け給え! 火の神、火之迦具土神(ほのかぐつち)の御力、ここに拝借たてまつる。神の名において、火よ鎮まらん!」
 すると、床の火が瞬く間に縮こまって消えた。こうして主馬は合計三枚の『召喚符』を駆使して、赤子攫いの鬼婆の災厄を打ち破ったのだ。炎が弱点と知ってからの大技の連続はまさに圧巻だった。あやは火の温もりとともに恐怖から解放され、ようやく体が動いて、お堂の奥に横たわり泣いている赤ちゃんに駆け寄った。間違いない、妙の子供――ひかりだった。

 あやは写真を撮り、すぐ妙にメールと電話をした。妙は我が子の無事を知り、電話口でのどが潰れるくらい大泣きをした。隣りにいた旦那さんが一緒に喜びながら妙をなだめ落ち着いたので、見つけた場所を伝えると、妙は絶句していた。そう、この弥彦村の宝光院は、魚沼から高速を使って車で片道三時間かかったのだ。雪道で慎重な運転だったから時間が多めだったが、何者かが運んだとしか思えない距離なのだ。何者とは……つまり出雲夫婦が退治した飛行する老婆であった。妙は出雲夫婦にすぐ助けを求めたことを心の底から良かったと感じた。
「あや、ほんとにありがとう! 弥彦村ね、今から車でそっちに行くわ!」
「わかった。どこか温かい場所で待ってるから、安全運転で来てね」
 妙は涙をぬぐいつつ、赤ちゃんの着替えなどすぐ揃えて出かける支度を行った。旦那さんの運転で三時間ほど走り、夜に弥彦村に入ったが、吹雪はだいぶ弱まっていた。予報だと明日は晴れになるようだ。
 宝光院の付近のファミレスで、あやと妙は飛びつき抱き合って大喜びをした。あやは抱っこしていたひかりを妙にしっかり渡し、ひかりがお母さんの匂いに気づいて嬉し泣きをすると、妙もまた大粒の涙を流し頬ずりした。旦那さんは深々と出雲夫婦に頭を下げたが、主馬はあやの代わりにふみを抱っこしていたので、照れ臭そうにはにかみ笑いを返しただけだった。
「でね、妙、本当は早く帰りたいところだと思うんだけど、ひとつ相談があるの」
「どんなこと?」
 あやは携帯で撮ってきた現場の写真を見せた。宝光院の婆々杉が枝折れをしていることと、もしかするとその枝かもしれないと思われる黒焦げの古木だ。焼け焦げたのは退治の痕跡なので問題ないが、今回は無事ヤサブロバサから赤ちゃんを取り返せたけれど、供養が要ると思う、とあやは結んだ。
「わかった、供養はちゃんとしてもらうわ。宝光院さんにも私たちから話すから」
「ありがとう。そうしてくれると助かる。じゃあ、後は任せるね」
 あやと妙は屈託ない笑顔を交わした。まるで学生時代を思い出したような感じだ。
「それでね、御礼なんだけど魚沼産のコシヒカリを一年分贈りたいの! ふみちゃんの離乳食にもできるよう無農薬にするね。あ、一応聞くけど、お米のアレルギーとかは大丈夫かな?」
「えっ? う、嬉しいけど、そんなにたくさん置けないよ。アレルギーは大丈夫だけど」
「一度に一年分は送らないよ。毎月送ってあげる。お願いもらって! それくらいしたいの!」
 あやはお言葉に甘えることにした。魚沼産コシヒカリは最高級ブランド米だ。それを離乳食で毎日食べられるなんて、ふみはなんて恵まれた子供なんだろうとあやは苦笑した。今はもう疲れてあやの胸ですやすや眠っている。特殊な感受性が覚醒して、ヤサブロバサの姿を捉えた出雲家の大事な一員として、明日には一歳の誕生日を迎えることになる。
 こうして妙の緊急事案は解決し、妙の家族は魚沼に車で帰っていった。その後、主馬と少しファミレスで話していると、主馬がイスに座る時に背中を痛がっているのに気づいた。
「背中、どうしたの? 吹雪をくらい過ぎて凍傷でも起こした?」
 あやは主馬の横に座り、後ろ襟から背中を覗き込み、ハッとなった。背中の皮膚が真っ赤に腫れていたのだ。
「いや、逆だよ。火傷だろう。何しろあの迦楼羅焔を背負ったからね」
 のん気に笑っているが、結構痛みをこらえているように思う。脂汗も額に少しにじんでいた。あやは人目も憚らず、ぎゅっと正面から抱き着き、自分の親友のために全力を尽くしてくれた夫をこの上なく愛しく誇らしく思った。あんな大技そうそう出来るものじゃないと主馬の背中が息苦しいくらい物語っていたのだ。あやは提案する。
「ねぇ、湯治(とうじ)に寄らない? 弥彦にも温泉があるの」
「温泉か。いいね、当日泊で行けるかな?」
「すぐ探すね! ねえ、貸切風呂の混浴のお部屋にしていい? 背中流してあげたいの」
「え、ああ、任せるけど、当日泊で行けるかな?」
 主馬はもう今日の長距離運転は勘弁して、という顔をしていた。あやは微笑む。
「あるって! すぐ探すから!」
 あやは携帯でネット検索し、混浴の貸切プランを予約した。ちょっと値は張ったが、最高級の美味しいお米がこれから一年間届くわけだし、こんな贅沢も全然ありだ。明日は二月三日、ふみの日。温泉宿で我が子の誕生日祝いをするというのも乙な気分だ。あやはルンルン気分で予約完了! のピースサインを主馬に見せ、主馬もほっこり安らいだ笑顔で応えた。

(了)


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ジャンル : 小説・文学

後輩書記とセンパイ会計、 楼閣の老婆に挑む

 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば日本映画の巨匠、黒澤明の弟子にだってなれただろう。ふみちゃんは小学校時代、近所の図書館にある侍が登場する日本映画をすべて見て作品評を学校新聞に出すほどの上級者だったらしい。量が多すぎて学校のお金で冊子にしたら、先生や保護者に大評判だったとか。そんなふみちゃんを自転車で迎えに来た一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの古典作品知らずで、数学が得意な理屈屋で、近ごろ右の頬にできた大きなニキビを気にしながら、それに触らない細身の眼鏡を新調したところだった。
 八月二十六日は、黒澤明監督の映画『羅生門』が封切りになった日らしい。今日はその前日、つまり二十五日だった。明日、『RASHOW-MON』という題名の大学生による演劇が行われる予定で、僕はある人にチケットをもらっていた。ちなみに僕はただのお客さんで、劇の内容も知らない。そんな上演前日の夕暮れどき、突然電話が来た。
 ――数井くんだっけ? ごめん、ひとっ走り、ふみちゃん迎えに来てくれる?
 チケットをくれたのは屋城銀河さんで、今回の台本を書いているのも銀河さんで、いきなり僕に自転車で来てと頼んできたのも銀河さんだ。電話番号を教えたことを後悔した。しかも、いつも僕の名前を確実に言い切ってくれないし。携帯に僕の名前が登録してあるんじゃないのか? まあ、とにかくふみちゃんのためにペダルをこいで来た。ふみちゃんは自転車に乗れないのだ。
 銀河さんは、生徒会長である屋城世界さんの姉である。ややこしいので補足するけれど、世界さんはすごい名前だが、性別は男だ。生徒会長を務める三年生。で、銀河さんはそれに輪をかけてすごい名前だが、性別は女性だ。大学で気象学を勉強していて、大学のボランティアサークルに所属したり、演劇サークルに入っていたりする活動的な人だ。友達も恐ろしく多いらしい。
 僕が呼ばれたのは、明日の会場――つまり銀河さんたちが稽古している建物だ。ここには木造の旧館と鉄筋コンクリートの新館が二つ並び立ち、本番は新館で上演するが、稽古は旧館の中でも行なっていると電話で聞いた。僕が呼ばれたのは古い木造二階建てのほうだ。
 旧館前の駐輪場に入り、自転車を置いた。
 これは、この大学が建てた最初の男子学生寮らしい。一番古く、一番狭く、一番汚い寮だと聞いた。築何年か知らないが、銀河さんの話だと、部屋代が安すぎて改築費用がないんだとか。カラスが声もなく飛んだり止まったりする瓦屋根は、少しの地震でもあれば崩れ落ちそうだ。木の柱や壁は得体の知れないシミで黒ずみ、あちこちにはがれた貼り紙が残っている。赤いペンキ文字のポスターが多い。館内は暗く埃っぽく、冷房も効いてなくてムワッとした熱がこもり、油だか汗だかわからない臭いが漂っている。
 いったい、こんな建物の中に誰が何人住んでるんだろう。人以外に狸が住んだり、泥棒も勝手に入ったりしそうと疑いたくなる雰囲気だ。今後もし大学生になってもこんな建物には住みたくない――と心に誓う。
 玄関前に来たとき、銀河さんから電話が入った。
「はい、数井です」
『中入る?』
 銀河さんは、僕が着いたかどうかも聞かないくらい前置きのない人だ。
「いえ……それは遠慮します」
 すると電話が切れて、廊下の奥から銀河さんが小走りに現れた。銀河さんは髪をくくったポニーテールで、へそ出しのTシャツと、かなり丈の短いパンツだ。銀河さんはどこでもこんな感じの格好である。埃っぽい廊下を裸足でパタパタ駆けてきた。白いTシャツのせいで、暗い廊下でも大きい胸が揺れるのが見えた。
「ごめんね。ふみすけちゃんは二階の衣装部屋で稽古中なんだけど、まだまだ時間かかるんだ」
 僕は体の力が少し抜けた。ちなみに銀河さんはふみちゃんをふみすけちゃんと呼ぶ。
「ねぇ、大丈夫だよね? 家に一回電話かける? あっ、この電話使う?」
 と一方的に言いながら、銀河さんは壁を指差した。そこには平成より前の昭和時代からずっとありそうな黒い壁掛け電話がある。ボタンを押すタイプでなく、番号の書かれた輪があるだけなので、使い方もよくわからない。そもそも僕は携帯を持っている。
「……いえ、僕は大丈夫です。親にも演劇の手伝いと言って来ました」
「親から信頼されてて大変よろしいっ!」
 それじゃ、親から信頼されてない人がいるみたいじゃないか。もしかして目の前の人か。
「じゃあ、終わるまで待ってて。ねぇ、中には入らない?」
「あの――ここでいいです」
「じゃあさ、ちょっと待ってる間に頼みたいことがあるんだけど、難しくないからお願いしちゃうね」
 そう言って僕がやるともやらないとも答えないうちに、材料を渡された。ペンと白紙の便箋と文字が書かれた紙だ。紙の文章を見て、便箋に書き写すよう頼まれた。僕はあまり字がうまくないと困ったが、銀河さんは大事な小道具だから手書きでお願いと強調した。一応頷くと、さらに手伝うことが増えた。
「で、書き終わったらそこの看板にこれを貼って、二階に持って上がってくれる?」
 と、演劇ポスターと両面テープを渡された。上がり口に立札みたいな手持ちサイズの木の看板が置いてある。やっぱり最終的に中に入らないといけないのか。
 それから、銀河さんはまだ他の準備があると忙しい顔になった。
「いろいろ大変なんですね」
「これから炊き出しをするのよ。新館に住んでる女の子の実家からお米と山芋がものすごい大量に届いてね。新館の厨房の大鍋で芋粥を作って芝居の連中に配るの。ま、作るのはあたしじゃないけどね、手が要るのよ。ふみすけちゃんと数井くんも食べてく?」
「……僕は家にご飯があるのでいいです」
 ふみちゃんのことを聞かれても困るが、たぶん家に帰るだろう。そのために僕は迎えに来たんだし。
「美味しいのにー。それと、もうすぐ雨降るからそこの傘使って。あっ! あのね、中に入っていいからねっ」
 と早口で言い残し、土まみれのサンダルを履き、銀河さんは小走りに外へ駆けて行った。一応どこへ行くのか尋ねると、「山芋の山!」と言って姿を消した。僕はわけもわからず、ポツンと一人取り残される。溜め息をつくと、雨が降り出した。銀河さんの予告は驚くくらい本当だった。
 夕日は完全に隠れ、湿った雨雲が雨粒より遅れて空を包み出す。傘立てに刺さった黒い傘を一本持ち上げたが、柄だけが抜けた。僕は何も言わず静かに戻す。
 館内に入るのは不本意だが、便箋やポスターが雨に濡れてはダメだ。仕方なく戸口を踏み越え、靴を脱がずに上がり口にそっと腰かけた。ふみちゃんが稽古している二階が気になる。廊下の途中にぼんやりと木の階段が見えた。赤い裸電球が一個だけ黒い電線で吊るされている。風もないのに、上がり口からはなぜか揺れているように見えた。
 雨の音にまぎれ、足下で虫の声がすると思ったら、キリギリスが一匹迷い込んでいた。黒ずんだ柱に縦向きに張りついている。虫の脚は不思議だな、と思った。疲れる姿勢なのに何で床に降りないんだろう、と。僕は便箋を床に置き、ペンのキャップを開けた。

 外はずっと雨。旧館の中から誰も出て来ないし、外から誰も帰って来ない。傘のない女子大学生とか、授業を終えた男子大学生とかが二三人いても良さそうなものなのに。この僕しかいない。玄関の外には薪が積み重ねてある。ここに住む大学生は薪割りもしているのか。木材だけでなく木の仏像みたいなものまである。割って大丈夫なのだろうか。
 僕は一階の上がり口で待っていた。その間、銀河さんに頼まれた文章の写しをやっていた。僕が苦手な古めかしい文体で、難しい漢字もあった。ただ、文句を言う相手もいないので黙々と作業をこなした。
 いつか腐って壊れそうな建物だが、ここにふみちゃんが数日前から放課後になると稽古に来ているのだ。送り迎えは銀河さんが車でしている。ああいう性格の銀河さんはともかく、ふみちゃんはこの建物に入るのは平気だったのかな。
 ただ、今回ふみちゃんに切実に協力を求めたのは銀河さんだった。演劇の内容は知らないが、銀河さんから映画『羅生門』を現代向けにリメイクした恋愛物だと聞いた。で、その劇に出演する女の子が一週間ほど前に腕を怪我してしまい、代役が必要になり、その子と背格好や雰囲気が似ていて、黒澤映画にも詳しくて古い漢字や言葉使いも理解できそうなふみちゃんに頼んだそうだ。確かに適任だ。
 待ち飽きて、そろそろ、ふみちゃんの声が聞きたくなってきた。まだ終わらないのかな。お腹もだいぶ空いてきたが、ふみちゃんの練習が終わるまで待つしかない。僕は夕立の雨音のせいでかき消されているのかと思い、立ち上がりドアを閉めてみた。
 うっすらと、二階から女の子の声が聞こえた。予想通りだった。これはふみちゃんだ。台詞の練習か打合せか内容まではわからない。結局終わる時間は知らないから、何が解決したこともないけれど、ふみちゃんの声が聞こえるだけでも安心した。知っている人のいない大学寮で一人待つのはあまりにも寂しいのだ。
 これで少しは空腹も我慢できる。長引くなら来る途中にコンビニでパンでも買ってくれば良かったな、と後悔した。いつ終わるかも知らないので、この場を離れるのも悩ましい。「中に入っていいよ」と何度も言われたのが今頃になって胸に戻ってきた。便箋の書き写しが終わり、手持ち看板もポスターを貼り終わった。
 これを二階に持って行けというのだ。
 決心した。ふみちゃんがいるんだし、練習を励ましに行こう。そう決めた。

 ぎいぎいと古びた音を立ててきしむ階段を一段ずつ注意して昇る。幅が狭いし、手持ち看板もあるので慎重な足運びになるけれど、そんなことより、どうしようもなく足下が暗い。
 僕が眼鏡だからだろうか。いや、そういうこともないだろう。廊下も裸電球だったが、階段の上にも同じ電球が一個垂れているだけだ。風もないのにゆらゆらと揺れている。壁や窓にすきまでもあるのか。それとも夕立のせいか。住んでる人はよく夜中にトイレに行けるな、と身震いする。
 僕の心を支えているのはふみちゃんの声だった。階段を昇る度に、いよいよはっきり台詞が聞こえてくる。「りゅうのすけ」という名前が何度か繰り返し耳に届いた。その「りゅうのすけ」に呼びかけるような台詞を練習している。僕は時代劇をイメージしていたが、そうか恋愛物だったと思い出した。ふみちゃんはどんな役なんだろうか。何となく町娘や侍の妹などが似合っている気がした。
 階段を昇り終え、稽古中の部屋へと歩く。中から感情がたっぷりとこもった声がまた響く。ふみちゃんは演技力が結構あるんだな。衣装部屋と聞いていた稽古場所は和室っぽい。僕はふすまに手をかける。
「龍之介さま、ふみをもらいたいなんて……ふみは、後悔などいたしません」
 僕の手は止まった。
 な、何の練習だ? ふみちゃんが自分をふみと呼んでいるぞ。役柄なのか?
「龍之介さま、ふみの自由だとおっしゃっても……ふみの心は決まっております」
 すごく入りにくい場面だ。これはドラマで言えば、プロポーズを受けて答えているように聞こえる。ふみちゃんは中学生だけど、いや、見た目の背丈ならもっと下に見えるけど、本当にこういう内容なのだろうか。しかし、台本を作ったのは銀河さんだ。普通のものを書くとも考えにくい。それにしても――。
 息をひそめ、ふすまを静かにノックする。
「ふみちゃん、迎えに来たんだけど、いいかな?」
 僕なら声でわかると思ったのに、
「はっ、龍之介さまっ?! 違いますっ。今のは違います!」
 ……何が違うのかわからない。開けていいのか迷った。
「ふみちゃん――開けていい?」
「開けてしまいました! 読んでしまいましたっ。もう、ふみはどうしたらいいのでしょう!」
 ふすまを一枚へだてて、僕は立ち尽くし、ふみちゃんの迫真の演技を聞いていた。声は絶対にふみちゃんだ。誰か大学生がいれば開けてくれるかと思ったが、他に誰もいない感じなので、僕は「よいしょ」とふすまを開けた。室内は板の間で、ここもまた天井の真ん中に赤い電球が一個垂れ、チラチラと弱く光っている。
 すっと開けたかったが、滑りが悪くてガガガッとうるさい音が鳴った。入るのに無駄に苦戦した。看板を持った手に変な汗が浮かぶ。何だかドッキリ番組の種明かしの瞬間みたいだ。そんな間抜けな看板ではないのだけれど。まあ、とりあえず早く顔が見たい。
「迎えに来たよ」
「は、はいっ! ふみは、ふみは――っ!」
 美しい和装のふみちゃんと目が合った。部屋の中にはふみちゃん一人だけ。髪はいつも通りの自然な二つ分けを白いリボンで結んでいるが、薄紫色の大人びた着物に身を包んでいる。そこに白い蜘蛛の糸を張り巡らせたような柄が織り込まれていた。帯には、煙草を吸う悪魔のような絵が縫ってある。悪魔のまわりには濃い紫色の花が咲き乱れていた。何とも言えない着物や帯の柄だ。背が小さいのは変わらないけれど、驚くほど大人っぽい雰囲気がある。
 あれ? 化粧をしているのだろうか。頬が白く、唇が赤い。
「ふみちゃん、お化粧してる?」
「あ……数井センパイでしたか。わたしは龍之介様に恥ずかしい告白を聞かれたのかと」
 僕はきょとんとした。ふみちゃんは慌てて言い足す。
「け、化粧は銀河さんにしてやられました! 不良は今だけですっ。帰るときはちゃんと落とします。数井センパイ、違いますっ!」
 いつもは和やかなふみちゃんが珍しくめちゃくちゃだった。僕は変なスイッチでも押してしまったんだろうか。
「いや……別に演劇の練習で化粧しても不良とは思わないよ」
「そうですか、数井センパイが黙っていれば――わたしは安泰なんですね」
 ふみちゃんはハンターを警戒する小動物のように身構えた。まるで僕が口封じにやられそうな台詞だな。だけど明日の本番は、僕だけでなく会長の世界さんや女子副会長の英淋さんも見に来る予定だ。ふみちゃんの化粧は本番もされると思うし、たくさんのお客さんが見るはずだけど。
 まあ、そういうのはいいか。もしふみちゃんがふざけて飛びかかって来ても、くすぐり倒すくらいの余裕はあったが、ふみちゃんはすごんだだけで動かなかった。
 様子見に来たが、まだ練習が終わる雰囲気ではない。看板を壁に立てかけた後、ひとつ気になることを聞いた。
「なぁ、りゅうのすけって誰なの?」
「芥川龍之介です」
 昔の有名な作家だった気がする。銀河さんが今回書いた台本は、芥川龍之介が自分の作品世界に迷い込み、苦悩しながら恋人と結ばれる話だとふみちゃんが話してくれた。演劇のタイトル『RASHOW-MON』も、芥川龍之介の小説をもとに黒澤明監督が映画化した『羅生門』が元で、そこに銀河さんが龍之介の恋愛を盛り込んでアレンジしたそうだ。あまりイメージできないのはふみちゃんの説明が雑だからでなく、僕が古典作品を知らないせいだ。
 また、なぜその題材かと言うと、銀河さんの友人であるこの旧館の寮長が芥川龍之介を深く尊敬していて、憧れるあまり芥川龍之介のように大の風呂嫌いになったほどだと言う。そんな話を聞くと、旧館全体が臭うのは寮長のせいだと思いたくなる。
 そして、着物をきれいに着こなすふみちゃんは少し胸を張った。
「わたしは恋人役で、お嫁さん役なのです」
「えっ、お嫁さん役?!」
 聞くと、元の配役の女の子は大学一年生の十八歳らしい。それなら恋人やお嫁さんはわかるけれど、ふみちゃんはまだ中学一年生だ。事情を聞くと、元の女性はかなり背が低く、それに合わせて衣装を作った後なので、その人より背が高い代役は難しかったそうだ。銀河さんは友達が多いから他の代役を探せたはずなのに、ふみちゃんに頼んだのはそういう経緯だったのだ。
「へぇ、大学生でもふみちゃんくらいの背の人がいるんだね」
「数井センパイ、違います。その人より、わたしのほうがすでに一センチ勝ってます」
 それは勝ちと言わない気がする。僕は笑った。
「さっきの『もらいたい』ってのは、お嫁さんだったんだ」
 恋人役も驚きだったが、お嫁さん役かぁ……僕はそれを明日舞台で見るのか。龍之介役の人はきっと大学生だろうから、恐ろしく不思議な感じになりそうだ。でも、この大人びた着物姿のふみちゃんが演技するのを見るのはちょっと楽しみだ。
「……不安ですか?」
 ふみちゃんが急に弱気な顔を見せたので、僕は精一杯元気づけようと思った。
「いや、声もしっかり出てたし、台詞も間違えなかったし、突然の代役なのに頑張ってると思うよ」
 僕は明るく返したが、ふみちゃんはふくれっ面をした。
「……銀河さん、戻って来ませんね」
 一人きりの練習の疲れか、声がいまいち浮かないが、ふみちゃんは帯をきゅっと締め直した。夕立だと思った雨は長引き、赤く照った窓ガラスを打ち続けている。
 ふみちゃんがまた練習を再開する雰囲気になったので、座って見ようと思ったが、衣装部屋と言うだけあって部屋中に服があった。ただ、それも不気味で不潔な雰囲気で、ボロ布みたいな和服が床に何十着もめちゃくちゃに散らばっている。薄灯りの下に何着も服が重なり、黒髪のカツラや白いマネキンの頭や手足なども混ざって転がっていた。暗さに慣れて見回すと、動かないから死体みたいに見えてきて気持ち悪い。散乱した服から汗や埃の匂いが漂い、僕はだんだん頭が痛くなってきた。
「ふみちゃん、よくこんな部屋で一人で練習してたね……。気分は大丈夫?」
 そう言って和服をつまんでどかすと、なんと、下にふみちゃんの愛用のカバンがあり、カバンの中からまるで封印を解かれたような勢いで花柄のしおりが飛び出した。僕の鼻にぶつかり、そのまま宙を舞う。僕はふすまへ倒れそうに体制を崩した。花柄のしおりがしゅるるるると踊りながら電球の灯りに吸い寄せられ、部屋を旋回しはじめる。
 ふみちゃんは、よろけた僕のほうでなく部屋の奥を見ていた。
「数井センパイ、違います。そこで猿みたいに腰の曲がった白髪のおばあちゃんがずっと作業してます」
 いない。いないよ。そんなもの、この部屋にいない。
 待ってくれ。落ち着いて。何を聞いた。何を言っている。僕は部屋に入ってずっとふみちゃんと二人で話していた。部屋に白髪のばあさんが? 作業をしている?
 ――何を。
 いや、何をじゃなくて、とにかく、いないんだって。この部屋には僕たち二人きり。もうわからないことだらけだ。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「白髪のおばあさんは……何をしてるんだ……?」
「それ、わたしも聞いたんです」
 聞いたらしい。白髪のばあさんと言うものに。ふみちゃんは振り返り、僕の顔を見た。
「……で?」
「髪を抜いて、髪を抜いて、カツラにしようとしてるみたいです」
 僕はどう受け止めたらいいんだろうか。足下にはカツラもたくさん落ちている。それを拾えばいいじゃないか。いや、そうじゃない。床に散らばった服もカツラもまったく動いてないのだ。
「ふみちゃん、さっき、作業してると言ったけど……?」
「長い黒髪の美しい女に化けて、奪われた腕を取り返しに行くそうです」
 白髪の老婆が、黒髪の美女に化ける。腕を取り返しに行く。腕――腕とは、手の腕か。
 思考回路がショート寸前だが、僕は胸の鼓動と気合いだけでそこに立っていた。
「う、腕を取り返すって、どういうことだ?」
 このやりとりに終わりは来るのか。どこまでが限界なのか、僕自身も考えられない。とにかく、浮かぶ問いをまっすぐぶつけるしかない。
「六日前、ここで奪われた腕です」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。六日前、ここで腕を奪われた。七日のうちに奪い返しに行くと約束した。しかし、同じ老婆が再び現れたとあっては会ってすらもらえない。そこで、黒髪の若い娘に化けて会いに行くことにした。確か千年前も別の場所で似たことがあったが、娘の姿のときに腕を奪われて、老婆の姿になって会いに行き、油断につけこみ、腕を取り返せた。しかし、千年で状況は変わった。老婆の姿であっても情け容赦なく断られたので、今度は逆に若い娘に化けていくのだ、と。主張する。
 とにかく、腕を奪い返すのだ――と。
 何を言っているのか、今まで以上に謎だった。誰が腕を奪ったのか、なぜ奪われたのか、千年前というぶっ飛んだ言葉まで出てくる始末。しかも、話が髪やカツラからすっかり腕になっている。引っ張ってねじ切れて根元から抜けたような不穏な感触。
 六日前。そうだ、六日前と言えば、元の配役の女性がここで怪我した日じゃなかったか。腕を。もし、その女性に何かしら心残りがあるとして、取り戻すとは、七日目の明日、本番で役に戻りたいと強く願っている――とか。いや、だけど。
 あまりにも根拠のない想像で、非科学的で本当なら絶対に考えたくないけれど、もしそういう強い思念みたいなのが引き金になり、代役になったふみちゃんに災いが及ぶとしたら。話がすべて腕に向かってるわけだし、ふみちゃんの細い腕に何か起きてしまったら。僕は明日もっと痛ましい瞬間を見ることになるかもしれない。言おう。何かが起こる前に、はっきりと言わなきゃダメだ。
「ふみちゃん、降りよう」
「えっ?!」
 黙って考えていた僕がいきなりそんな言葉を向けたものだから、ふみちゃんは目を丸くして驚いた。
「お前が危険だ。早く降りよう」
「数井センパイ、で、でも、銀河さんが……」
 そうだ銀河さんだ。本番は明日。一刻も早く伝えなければ。もうじっとしていられない。ふみちゃんはまだここで練習を続けるつもりなのか。
 違う! 僕は断じて違うと首を横に振る。自分の胸の波動だけが決意の指針だ。
「ふみちゃん、僕がお前をどう護ろうと逃げるなよ。僕もそうしなければ病む体なんだ」
「数井センパイッ! 待って!」
 ふみちゃんが悲痛な叫びを上げたが、この瞬間ばかりはまったく無視した。
「口答えするな、お前をどうするか僕が決めたんだ! 降りるぞっ!」
 まるであのときと同じ――夏休みに、こいつが学校の旧校舎の図書館で、花柄のしおりが宙を舞う中、わけのわからないことをずっと叫び散らしていた時と、何も変わらない。僕がやらなければならないことは、何も増えていないし、何も減っていない。
「僕はずっとそばにいてやる! だから、僕の言う通りにしろっ!」
「うっ……!」
 僕はこの隙に見えない白髪の老婆から離そうと、着物を着たふみちゃんを抱っこして衣装部屋から駆け出した。途中、階段で下ろして手を引いたり、上がり口に座らせ落ち着かせてあげたり、夏の勢いで強く抱き締めたりした。あのときを思い出し唇を見つめると、そこには銀河さんに朱く塗られた口紅が、電灯の弱い光に濡れて照り輝いていた。
 ふみちゃんはあれだけ僕に怒鳴られて、震えるほどの涙目だった。僕を見ているのが恐いなら目を閉じろ、と告げる。素直に従った。
 雨音さえもなく――二人しかいない場所で、口づけをする。
 心が落ち着き、唇を離してもう一度ゆっくり抱き締めた。不確かな直感も、確かな疑いも、この子の前では全部はがされる。それから僕はおかしくなるくらい、空腹だった。もう、今日のことは全部なかったことにして、この子と一緒に帰りたかった。たったひとつ、銀河さんに言伝さえ済ませれば。

 一階の玄関が急に騒がしくなった。黒い木のドアを開けると、雨は上がり、玄関前に台車に積まれた巨大な四角い木箱がこっちに向かって来た。箱の中から銀河さんが手を振っている。台車は大学生が押していて、銀河さんは甲高い笑い声を上げながら台車で走るのを楽しんでいた。いったい何の準備をやっているんだ。それとも勢い余った遊びなのだろうか。
 ふみちゃんを上がり口に残し、僕は銀河さんのそばまで歩いた。すると、銀河さんは僕の顔をまじまじと見て、
「ふうん」
 と言う。
「二人にすると――やることやるのね」
 にやりと口元をゆがめ、ねっとりした流し目で笑った。僕は一瞬戸惑ったが、すぐに原因に気づいた。口紅だ。僕の唇に朱い色が少し移ってしまったのだろう。でも、否定することでもないし、慌てて拭き取るのもカッコ悪い。そして珍しく僕は開き直った。
「銀河さん、遊んでるんですか?」
 本当はそんなことよりも伝えたいことがあったが、銀河さんがこの状況を尋ねなさいという顔つきだったのだ。
「数井くんよね? 違うわ。トロッコの走行練習よ」
 劇で使うらしい。どうでもいいから詳しく聞かなかった。
 僕は二階の衣装部屋で起きた出来事と、そこから自分が感じたことを手短に話した。銀河さんはトロッコに入って聞いている。実際、銀河さんもふみちゃんにおかしな現象が起こった瞬間に遭遇したことはあるのだ。話が終わると、深く頷いてトロッコから降りた。
「なるほど。あなたたちに関係ないから、事情はあんまり言えないけど、多少の因縁はあるかもね」
 女の全力はこじれると恐いね、と腕を組んだが、僕はただ黙っていた。
「あの子は龍之介の恋人をずっとやりたがってたのよ。うん、わかった。今からあたしが家に行ってあの子が一番練習したシーンを録音して来るわ」
 その女性は、骨折ではないので入院はしていないが、腕の筋を傷めて家で安静にしているらしい。銀河さんは駐車場へ歩き出す。その女性についてはここの準備を差し置いて今すぐやらないといけないと考えたのだと思う。
「彼女が譲れないのは、たぶん届いた恋文を読み上げる場面なの。どの道、あの子は来れないし、そのシーンは本番でふみちゃんは何も言わず舞台に立ってるだけにするね」
 僕は何も反対しない。劇をどうするかは銀河さんたちが決めることだ。
「数井くん、男と思って頼みがあるの。結構難しいんだけど、これ、君しかできないんだ。今からするふみちゃんの最後の練習で、あたしの代役やってくれない?」
 ペンと便箋を渡された時とは言い方がだいぶ違うが、結局、僕は銀河さんに協力すると知っているのだ。で、当然僕がやるともやらないとも答えないうちに、トロッコの中から亀みたいな緑色の甲羅が出てきて、いきなり渡された。
「亀じゃなくて河童なんだけど、龍之介から恋文を預かり、トロッコに乗ってふみに届ける役なの。ちょっと変な顔しないで。ファンタジー、ファンタジー」
 いま僕はそんなに露骨に変な顔をしたのか。
「河童ですか……。あの、『ふみ』って?」
「あ、台本知らないよね。龍之介の恋人であり奥さんになる人の名前が『ふみ』。文学の文と書いて『ふみ』よ」
 そう言えば、二階ではふみちゃんに龍之介が誰なのかしか聞かなかった。確かにふみと名乗っていた。今回、文の役をふみちゃんがやるわけだ。
「――それって、偶然ですか?」
 変な聞き方だが、銀河さんは首を傾げつつ笑った。
「運命なんじゃない?」
 そして、僕は仕方なく甲羅を背負った。よく考えれば別に練習で背負う必要はなかったのに、銀河さんが早く早くとせかすので、うっかり着てしまい、その格好でトロッコに乗り込んだ。銀河さんの指示が始まる。まず、台本を一冊渡される。書き込みのないきれいな台本だ。あと、龍之介の手紙は僕がさっき書き写したのを使うよう言われた。で、「後はよろしく。楽しみにしてる」と大学生の友達に頼み、事情を説明した後、駐車場へ走って行った。
「ハズイくんだっけ? 似合ってるよ。よろしくね!」
 と面識もない男子大学生に励まされ、僕はトロッコを押された。恥ずかしがり屋っぽい呼び間違いを正したかったが、もういい、きっとこの一度きりだ。
 別の大学生が館内で待つふみちゃんを呼びに行き、玄関先の外で練習することになった。ふみちゃんはトロッコを見て一瞬息を飲んだが、僕の顔をじっと見つめると、すぐ白いハンカチを取り出して渡してくれた。そんなに目立つのかと知ると、照れ臭さが何倍も増してくる。
 練習に入る前に、ふみちゃんが少し不安げな顔で聞いてきた。
「あの、数井センパイ……わたし、この役は続けていいんですか?」
「大丈夫だよ。銀河さんが何とかしに行ったから。せっかくの練習を無駄にはさせないよ」
 心からそう願い、僕は何とかできそうな銀河さんにいち早く頼んだのだ。そしてちゃんとすぐ動いてくれた。
「でも、さっき『降りよう』って……」
「ん? とりあえず二階からだよ」
 僕は普通に答えたが、ふみちゃんは急に嬉しそうに微笑んだ。そんなに喜ばれる答えでもなかったと思うけれど、不安が薄れて何よりだ。顔に元気が戻って、ふみちゃんは僕の状態をあらためてじっと眺めた。
「数井センパイ、これ、予想外の乗り物ですね」
「……僕だってこんなこと聞いてないよ。まったく」
 甲羅を背負った格好を笑われるかと思ったが、今だけの銀河さんの代役と説明を聞いたので、からかう気はないようだ。僕はハンカチで唇を拭き終え、一瞬考えた後ポケットにしまった。トロッコの中からふみちゃんに「洗って返すね」と小声で言うと、うんと小さく返事してくれた。
 練習が始まる。僕は台本を見ながら急いで河童の役割を理解し、小道具の恋文をふみちゃんの――文の前で開いた。冒頭だけ河童が読むことになっている。手紙では読めない少し漢字もあったが、台本はフリガナが振ってあった。


文(ふみ)ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしています。
何時頃うちへ帰るか、それはまだはっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは文ちゃんにこういう手紙を書く機会がなくなると思いますから奮発して一つ長いのを書きます。
昼間は仕事をしたり泳いだりしているので、忘れていますが、夕方や夜は東京が恋しくなります。
そうして早くまたあのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思います。
しかし、東京が恋しくなるというのは、東京の町が恋しくなるばかりではありません。
東京にいる人も恋しくなるのです。
そういう時に僕は時々文ちゃんの事を思い出します。
文ちゃんをもらいたいという事を、僕が兄さんに話してから何年になるでしょう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)
もらいたい理由はたった一つあるきりです。
そうしてその理由は、僕は文ちゃんが好きだという事です。


 河童の代読はここまでだった。しんと静まる。どうしようもなく顔が真っ赤になった。僕は河童役だと、そしてこれは龍之介の恋文だとわかっていても、口づけをした後にこれを読むのは強烈に恥ずかしい。
 だけど、僕は練習を見守る大学生たちに囲まれながら、役目を果たさなければならず、何とか読み切った。しかし台本に見入ったまま、顔を上げなかった。なぜなら、顔を上げればそこにふみちゃんがいるからだ。あの子がどんな表情でこれを聞いているのか、自分の目で見るのが恐い。心臓が背中の甲羅を突き破るくらい高鳴っていた。
 台本では、ここで恥じらう文が河童から手紙を奪い取り、自分で読み上げるシーンに移る。文が二三歩近づいてきたので、僕はうつむいて手紙を差し出すと、文は手紙を奪い取るという荒々しい仕草でなく、そっと和紙を優しくつまむように受け取った。それから、文は――ふみちゃんは手紙を持ち、なぜか読みはじめなかった。
 夜が落ちた旧館の前で、沈黙の時間がしばらく流れる。
 おかしい、僕が間違ったのかな……とあせって台本を見直す。いや、文の番だ。もしかして元の配役の女性に遠慮してしまったのか、あるいは緊張で台詞が飛んでしまったのか、まわりの大学生も戸惑っている様子だ。
 僕は異変があったら大変だと感じ、思い切って役を捨て、ふみちゃんの顔を見た。
「ふみちゃん、大丈夫か?」
 風格ある旧館を背にして、不思議なほどやわらかい笑顔が待っていた。ふみちゃんはトロッコに手をかけ、僕のすぐ顔の近くまで身を寄せてくる。心が揺れて弾んだが、どうやら僕の演技が足りないからのようだった。
「数井センパイ、違います。最後くらいわたしの顔を見て言ってください。ねっ、やり直しましょ」
 こんな照れ臭い手紙、もう一度読み直ししろって言うのか。河童の僕から――お前に。ふみちゃんの目は本気だった。本気で求めていた。僕は根負けして素直に従った。
 二度目は頑張って最後にふみちゃんの目を見て読み、今日のふみちゃんの練習は終わった。銀河さんに電話を入れると、向こうはこれから録音とのことだった。
『ほんとありがとね。明日はお客さんでいいからね!』
 報告を済ませて電話を切る。こんな心臓が割れそうな思いは一度だけで十分だ。館内で私服に着替えたふみちゃんがドアを開けて出てくる。自転車で送ると言うと、ほっとした顔で笑った。気づけば結構遅い時間である。二人とも空腹の限界だった。

 翌日本番、二十六日の午後五時、僕と世界さんは銀河さんからのチケットで演劇を見に来た。世界さんも弟ながら演劇を見に来るのは初めてらしい。会場の新館へと歩きながら、旧館を脇目に眺めると、世界さんは「屋根から蜘蛛の糸が垂れてるな」と短くコメントした。蜘蛛の糸はよく見えないが、光や影の具合かもしれない。
 僕は昨晩ここで起きたことは世界さんに話さなかった。けれど、家で銀河さんから何か聞いている気もする。ただ、世界さんは興味なさそうに旧館を通り過ぎた。
 女子副会長の英淋さんは、弟が藪の中で転んで足を捻挫したらしく、急に来れなくなったしまった。家族想いの英淋さんが弟の世話を優先することはよくあることだ。もちろん、ふみちゃんの舞台が見れないことをすごく残念がっていた。
 新館に着き、受付を済ませて暗幕をくぐって中に入る。こっちの建物は冷房がちゃんと効いていて安心した。きっと旧館が特別古いのだろう。
「ふみすけの晴れ舞台をじっくり見てやろう」
 世界さんはいきなり最前列に行ったので、気は進まないが僕も並んで座った。ちなみに世界さんはふみちゃんをふみすけと呼ぶ。本番で僕たちが目の前に座っていると、ふみちゃんは緊張するだろうか、それとも喜ぶだろうか。昨日のことがあったので、心中は何とも言えない。
 時間になり上演が始まった。どん帳が開く前に、劇団の人が住職のような僧衣姿で現れた。目立つのはあごまで垂れ下がったすごい巨大な鼻だ。作り物の鼻を付けている。
 どん帳の前に立ち、客席に説明を始めた。今日は黒澤明監督の『羅生門』が公開された日だとか、撮影は禁止とか、携帯電話をマナーモードにとか――声は銀河さんである。垂れた長鼻をつけた変装だったのか。そして、次に龍之介の恋人・文の代役について説明した。チラシやポスターは元の女性の名前だからだ。
「一週間前、稽古中に怪我をしてしまい、文役はできませんので、今日は代役の者が務めます。ですが、本人が一番練習したシーンだけはどうしても彼女に演じてもらいたいと思い、台詞だけを録音してきました。そこだけ声が変わりますが、皆さま、どうか心の目をとぎすませてお聴きください」
 僕はひざに置いた拳を握り締めた。
「それでは、これより『RASHOW-MON』の上演を開始いたします」
 銀河さんが深々とお辞儀をして下がった。客席の後ろのドアも閉められたようだ。もう少しで始まる。そのとき、世界さんはいきなり僕に話しかけてきた。
「数井は出ないのか? 舞台で恋文を読むのかと思ってたが」
 ――えっ、急に何を言うの? いや、僕は出ないけど。
「世界さん、違います。河童役は銀河さんでしょ?」
「数井、違うぞ。姉さんは河童役じゃない。『羅生門』にそんなのは出ない」
 と世界さん。僕が混乱したので、世界さんにチラシを見せられる。確かに河童役はどこにも書いてない。銀河さんは脚本だけで、出演すらしていない。
「あれ? 河童がいない……」
「なんだ、そうか、姉さんの企みか。昨日の夜、練習中の録画を家で見せられたんだが」
 録画って何のことだ? 何を録画してたんだ? 世界さんは何を見た?
「えっ……だったら、トロッコで運んでくるのは誰?」
「トロッコなんて『羅生門』に出ないぞ」
 僕は原作を知らない。まさか――昨日のあの代読シーンを録画したのか? というか、あのシーンが偽物? 練習にいた大学生たちは銀河さんの企みに協力しただけ?
「でも、ふみちゃんも一緒に練習しましたけど」
「さあ。驚いた顔してなかったか?」
 ぼんやりと、予想外な乗り物だとか言っていた。
「はっ? えっ、いったい何が本当なんですか?」
 会場が一気に暗くなった。始まるのだ。世界さんは苦笑し、僕の肩をポンと叩きながら、声をひそめた。
「まあ、いいだろう――真相は藪の中だ」
 それから会場の照明がすべて落ちた。まったくの闇だった。他の観客の咳払いがひとつ、ふたつ。闇の中で大きな音楽が鳴り出し、目の前のどん帳が開いていく気配がして、それ以上僕は何も聞けなかった。

 実際に河童役などいなかった。龍之介の手紙が文のもとに届き、文が自分で読み上げた。手紙を持つのはふみちゃんだが、そこで音声が変わり、違う女性が恋文を読む声が会場に流れた。これが腕を怪我した女性の声なのだろう。すごく感情がこもっていて、僕が代読した百倍もうまかった。当たり前だけど。とても切なさの募る朗読だった。
 そうして演劇が終わり、世界さんは銀河さんの頼みで片付けの手伝いに加わった。一方、ふみちゃんは、銀河さんや他の出演者やスタッフに御礼をすると、すぐ僕のもとへ駆け寄ってきた。紫の着物から着替えも済ませ、身軽なTシャツになっていた。
「数井センパイ、これ見てくださいっ。お芝居の小道具をもらったんです」
 芥川龍之介の恋文を持っていた。台本では読まれない原文の続きがきちんと書いてあるものだ。
 内容は知っている。そう、僕の字なのだ。昨日、銀河さんに頼まれて旧館の上がり口で手書きした手紙だ。続きも気恥ずかしいくらい純粋な恋文だった。
「――持って来ていいの?」
「銀河さんに、持って帰っていいよ、と言われました」
 頷いて自転車のスタンドを上げると、ふみちゃんは後ろに乗った。羽布団みたいなふみちゃんの重みは重さと言えなかった。僕は蒸し暑い夜に向かって自転車をこぎ出す。
 すると、ふみちゃんがなぜか僕の髪の毛を少しいじった。髪を集める白髪の老婆を思い出し一瞬驚いたが、二人乗りだから振り向きづらい。
「……数井センパイ、昨日言ったこと本当ですか?」
 突然の問いかけに、僕は心臓が飛び出しそうになった。 なっ、何を言ったことだろう。龍之介の手紙にあった言葉は、あれは僕が言ったことになるのか。いや、だって、あれは龍之介だし、相手は文だ。ふみちゃんは文じゃない。ふみちゃんはふみちゃ
「わたしを護らないと病む体なんですか?」
 覚えているんだ。うん。それなら追い詰められて確かに言った気がする。合っている。
「そうだな、絶対に病むよ。心配性なんだよ」
 もしふみちゃんに何か起きたら、腕を奪われた鬼のように僕は七日以内に、いやすぐにでも何とかしに行くだろう。今の僕が出来ることなんてそれくらいだ。それが大袈裟だとしたら、こうして後ろに乗せることと、これから一緒にいてあげることくらいだ。
「あの手紙は――人に見せてもいいですか?」
 そのフレーズに似たものが龍之介の恋文の続きにあった気もするが、もう思い出せない。読んだシーンを録画されてるんだ。銀河さんや世界さんにも見られている。
「見せても見せなくてもふみちゃんの自由だよ」
 目の前の信号が変わりそうだったので、僕はつい素っ気なく答えてしまった。
「数井センパイ、違います。そこは、今日限りの記念にして、と言ってください。だから、次に見るときは」
 言葉を止めた。
「……次に見るときは?」
「美しい女の姿で、約束をするときです」
 最後の言葉はどういう意味かよくわからなかったが、お互い代役の務めは無事に終わり、ふみちゃんとは別に進展はない。帰り道、芥川龍之介が文へ恋文を送ったのは八月二十五日だったとふみちゃんに教わった。どういう巡り合わせかわからないが、とにかく昨日借りて洗ったハンカチをまた明日ふみちゃんにきちんと返しに行くだけだ。

(了)


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後輩書記とセンパイ会計、 半裸の老婆に挑む

 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば天照大神が隠れた岩戸の前で踊ったという女神アメノウズメの友達だってなれたかも――はさすがに壮大過ぎるか。相手は日本創成期の神々だ。ふみちゃんは小学生時代、家が神社であるせいか、巫女の歴史を神代まで遡って自由研究をまとめたほどの上級者だったらしい。アメノウズメは岩戸の前で胸を全部さらけ出して襷(たすき)をかけて踊ったと伝えられ、一方、古墳から出土した埴輪の巫女も襷をかけていて、だから古代の巫女は襷をかける、と結びつけたそうだ。そんな研究内容を図書室で話半分に聞いている一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの神話知らずで、数学が得意な理屈屋で、今日は取材を受けるからと眼鏡を新調してきたところだった。
 取材というのは、生徒会の活動をインタビューされることになったのだ。生徒会室がかなり雑然としているので、図書館のきれいな一室を使うことになり、僕とふみちゃんは早めに着いたので何となくおしゃべりしていた。四月三十日、今日は図書館記念日らしいが、普段から図書館をそんなに利用しない僕にはあんまり関係がなかった。
「何かさ、襷って聞くと、パーティグッズの『本日の主役!』みたいなのを思い出すね」
 すると、ふみちゃんはむすっとした。ちなみにふみちゃんはつやつやの黒髪を今日は珍しく頭の上でお団子結びにしていた。取材だからいつもの髪型と変えてきたのかもしれない。意外にそういうの意識するんだな。
「数井センパイ、違います。襷は田植えとか神聖な行事にも使うくらい大事なものです」
 田植えって農作業じゃないか。巫女とは関係ないと思うけれど。それに田植えって神聖なのかな。泥だらけだけれど。まあ、とりあえず。何で襷の話になってるかと言うと、生徒会長の世界さんが数日前、取材を受けることを僕たちに伝えた時、「わかりやすいように役職を書いた襷でも用意するか」などと言い出したことの影響かもしれなかった。
 生徒会長の屋城世界さんは、親がつけた名前とは言え、世界を名乗れるほど寛大な人物である。性別は男だ。走り幅跳びで県大会まで行った陸上部の三年生エースであり、一年中日焼けしているような活力溢れる人だった。
「ふみちゃん、話す内容考えてきた?」
 正直、今日は世界さんと、あと女子副会長の英淋さんがメインで話すだろうから、僕は適当に横で相槌を打っていようと考えていた。英淋さんは他人想いの優しい性格で、話し方も丁寧だから取材受けは一番いいだろう。世界さんは大きなことを言う変な癖があるし、僕は理屈っぽくて口数が少ないし、ふみちゃんは説明が大雑把だから、活動説明は全部英淋さんに任せたほうがいいくらいだ。さて、そろそろ世界さんも図書館に――
「数井センパイ、数井センパイ、数井センパイ」
 何で三回言ったんだ。僕の名前は数井だけれど。みんなよく知ってるんじゃないのかな。そんなふみちゃんは携帯の画面に目を落としている。
「英淋さんからメールが来ました。弟さんが公園のブランコで靴を飛ばしてなくしたから今すぐ家に帰るそうです」
 何でだよ……と溜め息をついたが、英淋さんはそれが優先という家族想いな人だった。弟はたくさんいるらしいが、きっと僕たちにメールを送りながら学校を駆け出して、弟の靴探しに向かったに違いない。
「英淋は緊急事態宣言らしいな。それじゃあ、始めよう」
 世界さんが、大人の男性を連れて僕たちのいる机に向かって歩いてきた。この人が取材する人なのかなと思ったが、一番驚いたのは世界さんよりも数倍色黒な肌をしていることだった。ホームページを作っている人と聞いていたけれど、イメージと全然違った。
「今日取材してくれる田耕(たすき)さんだ」
「どうも、皆さんはじめまして」
 名刺を渡される。今回の取材は、地域の新聞や広報誌でなく、開架中学のホームページに生徒会活動を載せるにあたり、ホームページを作っている会社の人に取材してもらうというものだ。田耕さんは肩から大きな黒いバッグを提げていて、趣旨説明を終えると、バッグから小さな機械を出し、机に真ん中に置いた。この小型マイクで録音するらしい。後で写真撮影もするという。とにかく全部自分でするそうだ。
「何でもするんですね」と僕は感心する。
「そうですね。生まれがすごい田舎だし、何でも出来る万能人になれって育てられたんです」
 田耕さんは真っ黒な日焼けで年齢がわかりにくいが、声はかなり若かった。まだ二十歳くらいの気さくなお兄さんのようで親しみがわいた。取材の前に世界さんが尋ねる。
「何でそんなに日焼けしてるんですか?」
「ああ、これね。子どもの頃から素潜りを趣味でやってるんです」
「海の近くに住んでるんですか?」
「八丈島なんです。みんな知ってるかなぁ、伊豆諸島の島なんだけど」
 田耕さんは笑顔で聞いてくる。世界さんも僕も知ってると頷いたが、これまで静かだったふみちゃんが突然不思議なことを言った。
「はい、知ってます。半裸のおばあちゃんがいる島ですよね」
「えっ……と? 俺の……ばあちゃんは、大昔になくなってるけど――?」
 空気がおかしくなる。何とか答えてくれた田耕さんはいい人だった。
 僕はすぐさま世界さんに取材を始めてもらってくださいと頼み、ふみちゃんに変なことを言うなと厳しく目配せした。ふみちゃんは頭のお団子からハテナの苗が生えたような顔をしていたが、世界さんが、最近の全校ボランティア活動とか商店街マップ作りとかの説明を始めると、ふみちゃんも自分がそれに全部関わって報告書まで書いていることを忘れたかのように、興味津々に世界さんの話に聞き入っていた。
 田耕さんは、あの一瞬だけ変な戸惑いはあったものの、僕たちの説明をスムーズに聞き取ってくれて、取材を終えた最後に立派なカメラで撮影をした。ホームページに載るのは気恥ずかしいけれど、僕も世界さんの選挙ポスターみたいな堂々と朗らかなる笑顔を見習って顔を作った。ふみちゃんは背が小さくて、端に立つと差が極端だったので、何となく真ん中に入れた。アメリカ人に捕まったエイリアンっぽい写真になってなければいいけれど、田耕さんは快心の笑みでシャッターを切り、「オッケー!」と言ってくれた。
 撮影が終わるともう六時だった。外は暗い。田耕さんは挨拶をしてバッグを担ぐと足早に図書室を出て行った。僕たちも帰り支度をした。と、世界さんが腕を組みながら考えている。
「もっとスケールを感じることを言えば良かったかな。世界と競える中学校をめざすとか。民主主義をここから始めるとか。夏くらいに巨大コロッケ作りでギネス登録をめざしているとか」
 生徒会の活動報告なんだから大きなことを言っても意味はない。巨大コロッケなんて僕たちも初耳だ。まさか本気でやるつもりじゃないよな。
「いや……たぶん、そんなの使わないですよ」
「それもそうか」
 世界さんは納得した。
「あっ、数井センパイ。これって、さっきの人の忘れ物ですか?」
 ふみちゃんが持っていたのは書類が何枚か入ったクリアファイルだった。会社名がプリントしてあり、田耕さんの名刺と同じだった。イスに置きっぱなしだったようだ。
「そうだね。早く届けてあげようか」
 住所を見ると学校から割と近くだ。世界さんは帰宅方向が違うので、僕が会社に寄って返す役割を任された。正門を出ると、なぜかふみちゃんもついてくる。
「えっ、ふみちゃんも来るの?」
「数井センパイ、違います。わたしも結構回り道すれば、同じ方向なんです」
「それ、同じ方向って言わないよ」
 どういう気持ちか知らないが、単に興味本位なのかもしれないけれど、ふみちゃんと一緒に薄暗くなってきた道を歩いて田耕さんの会社に向かった。

 会社はマンションの一室だった。インターフォンを押すと、田耕さんが応答してくれてほっとした。忘れ物のことを言うと『うわぁ、すごい助かる!』と感謝された。僕は渡すだけで帰るつもりだったが、田耕さんが玄関まで出て来てくれたとき、ふみちゃんの姿を見てちょっと表情が変わった。少し――真剣味が増したというか。声が低くなったというか。
「君たち、ちょっとだけ話したいことがあるんだけど、今から大丈夫? 事務所に寄ってくれない?」
 すぐ帰って欲しくないという勢いで、お菓子があるからとか、今日撮った写真でも見る? とか強く誘われて、僕は正直戸惑った。時間が遅いのもあるけれど、ふみちゃんはどうなのだろうか。
「あの、半裸のおばあちゃんの話ですか?」
「んーと……まあ、それもあるね」
「聞きたいです。センパイはどうします?」
 また取材前にふみちゃんがつぶやいた意味のわからない例の話が出た。ただ、もうそういう流れになったら、ふみちゃん一人にするわけにはいかない。僕も事務所へ入ることにした。田耕さんの事務所は三階だった。
 部屋はきれいに整理されていて、書類や文具や謎の袋とかで雑然とした生徒会室に比べると圧倒的にきれいだ。事務所には田耕さんしかいなかった。
「一人で働いてるんですか?」
「いや、同居人がいてね。もう一人は別の会社で働いてるんだけど、ルームシェアをしてるんだ。って言っても、中学生だとわからないかなぁ」
 このマンションの部屋を共同で借りているそうだ。大人だとそういう生活をしている人もいるんだなぁ、と聞きながらテーブルに着く。お菓子とジュースがすぐ出てきた。それからパソコンと、何だかほこりっぽい古いアルバムも一緒に現れた。
 まずは今日撮った写真の確認が始まる。デジタルカメラに線をつなぐと、写真がパソコン画面に映し出された。田耕さんが操作する間、僕たちは夕飯に影響がない程度にお菓子を一つ二つ食べる。田耕さんに「写真映りどう?」と聞かれたけれど、自分たちの映っている写真を良いと言うのは照れ臭くて、適当に頷いた。ただ、世界さんはどの写真でも堂々と最高のスマイルを作っている感じだった。やはり大物は写真映りも別格だ。
「じゃあ、これは何枚か選んでページに掲載するね。で、問題はこっちなんだけど」
 田耕さんは古いアルバムを開いて僕たちに見せた。ふみちゃんは待ち望んでたとばかりに身を乗り出して覗き込む。小学生くらいの子どもが何人か映っていた。背景は森の中が多い。ページをめくると、海辺で遊ぶ写真や民宿みたいな古い家の前に並んでいる写真もあった。これは島だろうか。何となく八丈島のような気がした。
 もそもそっ、しゅるしゅるるっ、と変な音がした。ふみちゃんのカバンの中からだ。おそらく愛用の花柄のしおりが何かを訴えようと暴れているのだと思うが、今日はきちんとフタが締まっているようで、飛び出てこない。田耕さんがいる時に出て来ても困るし、むしろ気のせいと耳を押さえたい状況だ。室内にラジオが流れているので、向こう側の田耕さんに不穏な紙の舞う音は聞こえてないと思いたい。
「あ、この日ですね」
 何枚かめくった後、ふみちゃんは突然言った。
「えっ――」と田耕さんは息を飲む。
「……この写真に、おばあちゃん、やっぱりいますね」
 ふみちゃんが一枚を指差した。田耕さんはどれがどうとか何も言わなかったのに。森の中の景色だ。みんな長袖と半ズボン。木が重なり光が乏しくて奥深いが、写真の中におばあさんの姿などどこにも映ってない。写真には日付が入っている。四月三十日。西暦の年もあったが、何年前か計算する前に田耕さんが手に取ってしまった。
「やっぱりそうか。……この夜、友達が行方不明になったんだ」
 さっと背筋に冷たいものが走った。お菓子をもう一個だけ食べようとした手を止める。もうそんな気分ではない。
「おっぱいを肩に襷がけにしてますから、人さらいのおばあちゃんです」
 いきなりふみちゃんの口からおっぱいという単語が出たことに驚いたが、そんなことよりも『人さらい』という言葉の強烈さによって僕の言葉は封じられた。田耕さんもまた深く沈んだ顔つきで、四月三十日の写真をじっと凝視していた。
 行方不明とか事件みたいな言葉が飛び交い、僕は何とかふみちゃんが深入りする前に追いつきたかった。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「そのおばあさんは……何者なんだ?」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。八丈島に現れる半裸の老婆で、上半身は何も服を着てなくて、長く垂れさがったおっぱいを襷みたいに肩に掛けて、森で迷った子どもを助けてあげたり、逆にさらったりするらしい。何だその助けてあげたり、逆にさらったりって。どういう違いなんだろうか。子どもの日頃の行いで――とかそういうよくある教訓なんだろうか。
 本当に八丈島に伝わる恐い話なのかもしれないけれど、ふみちゃんが長いおっぱいなどと言うせいで、緊迫感が薄かった。写真がただのハイキングみたいなせいもある。ただ、田耕さんはふみちゃんが僕に説明するのをじっと向かいで強張った顔つきで聞いていた。そっちの雰囲気のほうが変に不気味だった。そして、重たい口を開く。
「そのばあさんは……何で人さらいするんだろうか?」
 誰への質問なんだろう。ふみちゃんに答えを求めているのかな。
「この日は、ヴァルプルギスの夜でもあります」
 ふみちゃんはまた突然耳慣れない言葉を言った。田耕さんも眉をひそめるが、ふみちゃんは構わず続けた。
「本当は春を告げる日なんですけど、魔女が跋扈する日でもあるんです。日本だと山姥(やまうば)って言いますけど、山に捨てられたおばあちゃんとか、八丈島だと江戸から流れ着いた流刑者の家族とかもいて……やっぱり人とのつながりに未練があるみたいです」
 僕の頭はすでに理解する許容量を超えていた。春を告げる日。魔女が。山姥が。捨てられた。江戸から流された。人とのつながりに――未練が。
「ああ、八丈島は、昔は流刑の地だもんな。怨念も溜まるわけか」
 田耕さんだけは何か事情を飲み込んだようだった。島に生まれ育ったから知っていることがあるのかもしれない。
「人とのつながりに未練か……。俺の親とかの代だと、島を離れるか残るかみたいな家族内の言い争いもあって、八丈島へ一斉移住するときも問題が起きたらしいしな」
 何だかもう完全にふみちゃんと田耕さん二人だけの会話になっていた。僕が何か口を挟み込むがない。
「魔女は……人の心がつながらない狭間に現れます」
 ハザマという難しい言葉だった。田耕さんは噛みしめるように深々と頷く。
「俺も島を出てから島のことをよく調べたんだ。どうも、島の祖先は、大津波で一人だけ助かった妊婦だっていう伝説もあるしね」
 田耕さんの話だと、八丈島には外から流れ着いた人が定住したことで歴史が始まり、残る人と離れる人とでいろいろあったようだ。で、そんな歴史があって、上半身裸のおばあさんは結局、何者なんだろうか。いるかいないかで言うと、写真には映っていないのは事実だけど、ふみちゃんはどこかにいるような口振りだ。それより行方不明になった友達というのはもういいのだろうか。人とのつながりよりも、話がつながっていないことのほうが僕は不安だった。
「数井センパイ、違います」
 まったく不意を突かれた。
「行方不明になったのは、その子がさっきのおばあさんについて行ったからです」
 いや……それで片付く話なんだろうか。僕は田耕さんに助けを求める。
「でも、警察は探したんですよね?」
「警察だけじゃなく、みんなで探したけどね、見つからなかった。山で遭難したということになってしまった」
「あの襷おっぱいのおばあちゃんに手をつながれたのかも……ですね」
 ふみちゃんは瞳を伏せながらつぶやいた。アメノウズメが踊ったと記された古事記では、手を次ぐと書いて襷と読むらしい。毎年正月にテレビで見る新春を告げる駅伝でも、選手をつなぐものや世代をつなぐものは襷であり、田を鋤で耕すのも春を告げます――と、ふみちゃんは静かに結んだ。
 最終的に僕の頭の中に描かれたイメージは、上半身裸の奇妙なおばあさんが道に迷った子どもの手を引き一緒に田を耕している様子で、たぶんそれは大いに間違っているのだと思うけれど、不思議とそんなことが古い書物に書かれていてもおかしくないような感覚だけが残った。こんなことを話せば、きっと博学の後輩からはまた「違います」とすぐ言い返されそうだけど。
 時代も場所も超えたいろんな話が集まり、つながったり交差したり結びついたりしたものとして、僕はなぜかふみちゃんが大雑把に説明したものがあまり恐い存在に感じなかった。『春を告げる』という明るい言葉があったからかもしれない。
 迷った人をたすけたり、手をつないだり、隠してしまったり――
 そのとき、田耕さんの携帯が鳴って受信を知らせた。同居人がもうすぐ帰るという連絡メールだった。今日は田耕さんが夕食の支度をする番らしい。
「うわぁ、ごめんな。もう解散しよう。中学生をこんな時間まで引き止めるもんじゃないな」
 僕たちはカバンを持ち、田耕さんにお菓子とジュースの御礼をした。いつの間にかふみちゃんのカバンの中のしおりも静かになっていた。見なかったわけだし、それでいい。
 田耕さんは玄関まで送ってくれた。僕たちがおじぎすると、島生まれを感じるにこやかな笑顔を見せてくれた。
「夜道に迷わないようにね」
 さっきの話の後だと少し身の締まる送り言葉をもらって、僕たちは家路を急いだ。

 急ぐと言ってもふみちゃんの歩幅は小さいので、なるべく街灯が明るい道を選びながら僕たちは普通に歩いた。結局、僕たちは田耕さんの事務所へ何をしに行ったのか、よくわからなかった。三十分間、脈絡もなくしゃべっただけな気がする。まあ、忘れ物のファイルをきちんと手渡したことは間違いないけれど、そのために来たんだよなぁ、と苦笑してしまうくらい、関係ないことが盛りだくさんの夜だった。
「数井センパイ、春を告げるヴァルプルギスの夜はこれからです」
「んっ?」
「家に帰るまでが下校です」
 まあ、家に帰るまでが、そうだけど。何とかの夜は結局何なのかよくわからないままだ。
「どうした?」
 すると、お団子頭のふみちゃんが上目遣いにぐっと身を寄せてきた。
「魔女は――人の心がつながらない狭間に現れます」
 少し心細げに夜道に甘える感じだった。
「……数井センパイ、手を出してください」
 僕は素直に手を出した。すると、ふみちゃんがきゅっと手をつないでくる。手のひらの感触はやわらかくてふんわりと温かかった。
「やっぱり、手をつなぐと、ついて行きたくなりますよね」
 ふみちゃんはふんふんと鼻歌を浮かべて歩く。そのまま自分の家まで手を離すつもりはないようだった。
 明日から五月になってゴールデンウィークの三連休も近いけれど、ふみちゃんとは別に進展はない。少し恥ずかしい気持ちがありつつ、並べば不思議と心が落ち着くのを感じながら、ふみちゃんと帰るだけだ。

(了)


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後輩書記とセンパイ会計、眼鏡の同盟に挑む

 開架中学生徒会二年、平凡なる会計の僕は、以前七夕の夜に川底幻燈の市がある町で出会った男子中学生と、実はLNEを交換していた。交換した時に意味のない眼鏡イラストのスタンプを送って以来、数ヶ月間、一通もやりとりをしていなかったけれど、今日LINEを開いたらその男子中学生の誕生日です、とアラートがあったので気付いたのだ。
 遠藤正志くんという名前だ。LINEのアカウント名はだいぶ変わっているので誰かわかりにくいのだが、愛用の一眼レフカメラの写真をヘッダー画像にしているから間違いない。近況写真のところに、あのとき一緒にいた真ん中分けでおさげ髪の可愛い女の子が彼女(?)みたいな笑顔で載ってるから、どこが暗い眼鏡同士なんだ、向こうはリア充成分100%じゃないか、これはもう進展しちゃってるだろ絶対、と内心うなった。
 とりあえず誕生日だからLINEを送ってみようかな。一応【友達】ってことでもあるし。次のメッセージが一年後になるかもしれないけれど、深く考えないことにした。
「久しぶりです。数井です。覚えてますか?」
 超速で既読が入り、レスが来た。
『数井くん、お久しぶりです。まだ眼鏡ですか?』
 何が言いたいのかわからないレスだった。まるで自分があの後、眼鏡を卒業しちゃったよ、てへっ☆ とか続きそうなレスだ。これは待ったほうがいいか? と悩むうち、遠藤くんからもう一個レスが来た。
『数井くん、何かあった?』
 いきなり何かあった前提で聞いてきた。意図がよく読み取れないレスだ。僕のことを名探偵コナンみたいにトラブルの多い日常生活と思っているのだろうか。というかもう完全に誕生日おめでとうとか言い出すタイミングを逃して、腹の探り合いになりそうだ。
 何かを警戒されている。話題を変えよう。
「あの女の子は元気?」
 既読になって、十分間――時が進んだ。
 えっ。待って、待って、挨拶代わりなんだけど、まさか僕があの真ん中分けの女の子が気になってるとかそんな誤解してないよね。てか、そうか彼女みたいなポジションだったし、誕生日だし、まさか今隣りにいて二人でLINEの画面見て「きも~い」とか言い合ってたらどうしよう。しかし、ここで会話をやめるともっと怪しい。ううむ。
 なんてコミュニケーションが難しい相手なんだ……と黙って長考していたら、遠藤くんからようやくレスが来た。
『……よくわからないや。そっちは?』
 いやいやいや、「よくわからない」とか! 別れたのか?! これ、別れちゃった空気だよね。じゃあ、LINEのヘッダー画像は想い出の結晶なの? 銀河さんは「女の子は上書きしちゃうけど、男の子はフォルダ保存なんだってね」とか曖昧なことを言ってたのを思い出したけど、フォルダ保存どころかフォルダ全開じゃないか。
 うわああっ、完全に地雷を踏んだ。向こうから『そっちは?』って逆に聞かれちゃったけど、何を答えたらいいんだ。「一応、楽しくやってるよ」とかスカして言ったら、三十分既読ノーレスとかあるだろ、この流れは。遠藤くんの誕生日だしな。手榴弾を放り込むような真似は同じ眼鏡同盟としてすべきではない。
 と黙考しているうちに、五分間既読ノーレスが続いてしまった。まずい、このままだと向こうも僕とふみちゃんが微妙な関係になったと疑ってしまうかもしれない。いや、でもそこまで踏み込んで考えるかな。僕のヘッダー画像は今一番お気に入りの眼鏡の写真にしているし、隙は無いはずだ。しかし、さすがに何か返そう。
 向こうの雰囲気に合わせてこちらも暗めに返そう。
「いや……今までと何も変わってないよ」
 しょんぼり系のスタンプも送っておこうかな。そのほうが遠藤くんも安心するだろう。
 話題を変えよう。
「あのさ、今日ってカメラの日なんだよね」
『えっ、数井くんもカメラ興味あるの?』
 スタンプ
『どのカメラを考えてる?』
 スタンプ
『もう決めたちゃった?』
 スタンプ
『カメラは通販じゃなくて見て買ったほうがいいよ!』
 スタンプ
 僕が何か返そうとする隙を与えず散弾銃のように遠藤くんは食いついてくる。しまった、こっちのほうがむしろ地雷だった。無類のカメラ好きがしゃべりたくて、レンズは眼鏡しか知らない僕にもわかる話があるのだろうか。あるとしたら【友達】として最後まで聞くしかない。
「風景とか撮りたいんだけど、どんなカメラがいいかな?」
『どんな風景?』
「え、あ、神社とか、公園とか」
『ああ、それなら、おすすめのがあるよ!』スタンプ
 そこから溢れ出すカメラの説明は超精密だった。しかし、たくさんのスタンプによってほとんどの細かい情報が上にスクロールしてしまったので、僕は「うん」「なるほど」「すごいね」の三語を繰り返し使うだけだった。ふみちゃんの不思議なものの雑な説明のほうがまだ理解できた。残念ながら、遠藤くんのカメラに関する知識はカメラ好きにしか通じないと内心思ったが、それは最後まで言えなかった。
 話を終わらそうと思った。そろそろ宿題をしなければならないのだ。
「まあ、でも、お小遣いは新しい眼鏡に使っちゃうから、カメラはまだ先かなー」
『眼鏡なんて何でもいいじゃん。カメラのほうが奥が深いよ!』
 スタンプスタンプ
『いつでも相談に乗るよ!』スタンプ
 その瞬間、僕の眼鏡のレンズにひびが入る音がした。川底の町で【暗い眼鏡同盟】として決死の戦いをした男子中学生であったが、事実上の解散宣言とも思える話を終えた後、そっとLINEをブロックした。

 宿題を終えてお風呂に入った後、こんなやりとりがあったことをふみちゃんに電話で話したが、ふみちゃんは遠藤くんのことをぼんやりとしか覚えていなかった。僕よりも暗い眼鏡だったことは覚えていたが、カメラを持っていたことも忘れていた。説明を変えて、ラムネの空き瓶をくれた男の子だと話してようやく「あっ、綿菓子ヘアの人ですね」と思い出したくらいだ。ふみちゃんは別行動だったし、とにかく髪型が印象的だったようだ。
 それにしても綿菓子ヘアはちょっとあんまりだったので、ふみちゃんに「違うよ」と返そうかと思ったが、別に間違ってなかったのでそのままにした。とりあえずふみちゃんが他の男子に興味がなくてほっとして、次に新しい眼鏡を買うとしたら【暗い眼鏡同盟】と言われないように明るい眼鏡を買おうと思って引き出しに溜めてある眼鏡店のチラシやカタログをゆっくり眺めるだけだ。

(了)

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プロフィール

青砥 十

Author:青砥 十
幻想、冒険、恋愛、青春などをテーマにした短編小説をいろいろ書いています。子供のころから妖怪が大好きで、最近は結構ゆるふわなものが好みです。 生まれは群馬県前橋市。現在、奈良県在住。どうぞよろしくお願いします。

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