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後輩書記とセンパイ会計、 楼閣の老婆に挑む

 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば日本映画の巨匠、黒澤明の弟子にだってなれただろう。ふみちゃんは小学校時代、近所の図書館にある侍が登場する日本映画をすべて見て作品評を学校新聞に出すほどの上級者だったらしい。量が多すぎて学校のお金で冊子にしたら、先生や保護者に大評判だったとか。そんなふみちゃんを自転車で迎えに来た一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの古典作品知らずで、数学が得意な理屈屋で、近ごろ右の頬にできた大きなニキビを気にしながら、それに触らない細身の眼鏡を新調したところだった。
 八月二十六日は、黒澤明監督の映画『羅生門』が封切りになった日らしい。今日はその前日、つまり二十五日だった。明日、『RASHOW-MON』という題名の大学生による演劇が行われる予定で、僕はある人にチケットをもらっていた。ちなみに僕はただのお客さんで、劇の内容も知らない。そんな上演前日の夕暮れどき、突然電話が来た。
 ――数井くんだっけ? ごめん、ひとっ走り、ふみちゃん迎えに来てくれる?
 チケットをくれたのは屋城銀河さんで、今回の台本を書いているのも銀河さんで、いきなり僕に自転車で来てと頼んできたのも銀河さんだ。電話番号を教えたことを後悔した。しかも、いつも僕の名前を確実に言い切ってくれないし。携帯に僕の名前が登録してあるんじゃないのか? まあ、とにかくふみちゃんのためにペダルをこいで来た。ふみちゃんは自転車に乗れないのだ。
 銀河さんは、生徒会長である屋城世界さんの姉である。ややこしいので補足するけれど、世界さんはすごい名前だが、性別は男だ。生徒会長を務める三年生。で、銀河さんはそれに輪をかけてすごい名前だが、性別は女性だ。大学で気象学を勉強していて、大学のボランティアサークルに所属したり、演劇サークルに入っていたりする活動的な人だ。友達も恐ろしく多いらしい。
 僕が呼ばれたのは、明日の会場――つまり銀河さんたちが稽古している建物だ。ここには木造の旧館と鉄筋コンクリートの新館が二つ並び立ち、本番は新館で上演するが、稽古は旧館の中でも行なっていると電話で聞いた。僕が呼ばれたのは古い木造二階建てのほうだ。
 旧館前の駐輪場に入り、自転車を置いた。
 これは、この大学が建てた最初の男子学生寮らしい。一番古く、一番狭く、一番汚い寮だと聞いた。築何年か知らないが、銀河さんの話だと、部屋代が安すぎて改築費用がないんだとか。カラスが声もなく飛んだり止まったりする瓦屋根は、少しの地震でもあれば崩れ落ちそうだ。木の柱や壁は得体の知れないシミで黒ずみ、あちこちにはがれた貼り紙が残っている。赤いペンキ文字のポスターが多い。館内は暗く埃っぽく、冷房も効いてなくてムワッとした熱がこもり、油だか汗だかわからない臭いが漂っている。
 いったい、こんな建物の中に誰が何人住んでるんだろう。人以外に狸が住んだり、泥棒も勝手に入ったりしそうと疑いたくなる雰囲気だ。今後もし大学生になってもこんな建物には住みたくない――と心に誓う。
 玄関前に来たとき、銀河さんから電話が入った。
「はい、数井です」
『中入る?』
 銀河さんは、僕が着いたかどうかも聞かないくらい前置きのない人だ。
「いえ……それは遠慮します」
 すると電話が切れて、廊下の奥から銀河さんが小走りに現れた。銀河さんは髪をくくったポニーテールで、へそ出しのTシャツと、かなり丈の短いパンツだ。銀河さんはどこでもこんな感じの格好である。埃っぽい廊下を裸足でパタパタ駆けてきた。白いTシャツのせいで、暗い廊下でも大きい胸が揺れるのが見えた。
「ごめんね。ふみすけちゃんは二階の衣装部屋で稽古中なんだけど、まだまだ時間かかるんだ」
 僕は体の力が少し抜けた。ちなみに銀河さんはふみちゃんをふみすけちゃんと呼ぶ。
「ねぇ、大丈夫だよね? 家に一回電話かける? あっ、この電話使う?」
 と一方的に言いながら、銀河さんは壁を指差した。そこには平成より前の昭和時代からずっとありそうな黒い壁掛け電話がある。ボタンを押すタイプでなく、番号の書かれた輪があるだけなので、使い方もよくわからない。そもそも僕は携帯を持っている。
「……いえ、僕は大丈夫です。親にも演劇の手伝いと言って来ました」
「親から信頼されてて大変よろしいっ!」
 それじゃ、親から信頼されてない人がいるみたいじゃないか。もしかして目の前の人か。
「じゃあ、終わるまで待ってて。ねぇ、中には入らない?」
「あの――ここでいいです」
「じゃあさ、ちょっと待ってる間に頼みたいことがあるんだけど、難しくないからお願いしちゃうね」
 そう言って僕がやるともやらないとも答えないうちに、材料を渡された。ペンと白紙の便箋と文字が書かれた紙だ。紙の文章を見て、便箋に書き写すよう頼まれた。僕はあまり字がうまくないと困ったが、銀河さんは大事な小道具だから手書きでお願いと強調した。一応頷くと、さらに手伝うことが増えた。
「で、書き終わったらそこの看板にこれを貼って、二階に持って上がってくれる?」
 と、演劇ポスターと両面テープを渡された。上がり口に立札みたいな手持ちサイズの木の看板が置いてある。やっぱり最終的に中に入らないといけないのか。
 それから、銀河さんはまだ他の準備があると忙しい顔になった。
「いろいろ大変なんですね」
「これから炊き出しをするのよ。新館に住んでる女の子の実家からお米と山芋がものすごい大量に届いてね。新館の厨房の大鍋で芋粥を作って芝居の連中に配るの。ま、作るのはあたしじゃないけどね、手が要るのよ。ふみすけちゃんと数井くんも食べてく?」
「……僕は家にご飯があるのでいいです」
 ふみちゃんのことを聞かれても困るが、たぶん家に帰るだろう。そのために僕は迎えに来たんだし。
「美味しいのにー。それと、もうすぐ雨降るからそこの傘使って。あっ! あのね、中に入っていいからねっ」
 と早口で言い残し、土まみれのサンダルを履き、銀河さんは小走りに外へ駆けて行った。一応どこへ行くのか尋ねると、「山芋の山!」と言って姿を消した。僕はわけもわからず、ポツンと一人取り残される。溜め息をつくと、雨が降り出した。銀河さんの予告は驚くくらい本当だった。
 夕日は完全に隠れ、湿った雨雲が雨粒より遅れて空を包み出す。傘立てに刺さった黒い傘を一本持ち上げたが、柄だけが抜けた。僕は何も言わず静かに戻す。
 館内に入るのは不本意だが、便箋やポスターが雨に濡れてはダメだ。仕方なく戸口を踏み越え、靴を脱がずに上がり口にそっと腰かけた。ふみちゃんが稽古している二階が気になる。廊下の途中にぼんやりと木の階段が見えた。赤い裸電球が一個だけ黒い電線で吊るされている。風もないのに、上がり口からはなぜか揺れているように見えた。
 雨の音にまぎれ、足下で虫の声がすると思ったら、キリギリスが一匹迷い込んでいた。黒ずんだ柱に縦向きに張りついている。虫の脚は不思議だな、と思った。疲れる姿勢なのに何で床に降りないんだろう、と。僕は便箋を床に置き、ペンのキャップを開けた。

 外はずっと雨。旧館の中から誰も出て来ないし、外から誰も帰って来ない。傘のない女子大学生とか、授業を終えた男子大学生とかが二三人いても良さそうなものなのに。この僕しかいない。玄関の外には薪が積み重ねてある。ここに住む大学生は薪割りもしているのか。木材だけでなく木の仏像みたいなものまである。割って大丈夫なのだろうか。
 僕は一階の上がり口で待っていた。その間、銀河さんに頼まれた文章の写しをやっていた。僕が苦手な古めかしい文体で、難しい漢字もあった。ただ、文句を言う相手もいないので黙々と作業をこなした。
 いつか腐って壊れそうな建物だが、ここにふみちゃんが数日前から放課後になると稽古に来ているのだ。送り迎えは銀河さんが車でしている。ああいう性格の銀河さんはともかく、ふみちゃんはこの建物に入るのは平気だったのかな。
 ただ、今回ふみちゃんに切実に協力を求めたのは銀河さんだった。演劇の内容は知らないが、銀河さんから映画『羅生門』を現代向けにリメイクした恋愛物だと聞いた。で、その劇に出演する女の子が一週間ほど前に腕を怪我してしまい、代役が必要になり、その子と背格好や雰囲気が似ていて、黒澤映画にも詳しくて古い漢字や言葉使いも理解できそうなふみちゃんに頼んだそうだ。確かに適任だ。
 待ち飽きて、そろそろ、ふみちゃんの声が聞きたくなってきた。まだ終わらないのかな。お腹もだいぶ空いてきたが、ふみちゃんの練習が終わるまで待つしかない。僕は夕立の雨音のせいでかき消されているのかと思い、立ち上がりドアを閉めてみた。
 うっすらと、二階から女の子の声が聞こえた。予想通りだった。これはふみちゃんだ。台詞の練習か打合せか内容まではわからない。結局終わる時間は知らないから、何が解決したこともないけれど、ふみちゃんの声が聞こえるだけでも安心した。知っている人のいない大学寮で一人待つのはあまりにも寂しいのだ。
 これで少しは空腹も我慢できる。長引くなら来る途中にコンビニでパンでも買ってくれば良かったな、と後悔した。いつ終わるかも知らないので、この場を離れるのも悩ましい。「中に入っていいよ」と何度も言われたのが今頃になって胸に戻ってきた。便箋の書き写しが終わり、手持ち看板もポスターを貼り終わった。
 これを二階に持って行けというのだ。
 決心した。ふみちゃんがいるんだし、練習を励ましに行こう。そう決めた。

 ぎいぎいと古びた音を立ててきしむ階段を一段ずつ注意して昇る。幅が狭いし、手持ち看板もあるので慎重な足運びになるけれど、そんなことより、どうしようもなく足下が暗い。
 僕が眼鏡だからだろうか。いや、そういうこともないだろう。廊下も裸電球だったが、階段の上にも同じ電球が一個垂れているだけだ。風もないのにゆらゆらと揺れている。壁や窓にすきまでもあるのか。それとも夕立のせいか。住んでる人はよく夜中にトイレに行けるな、と身震いする。
 僕の心を支えているのはふみちゃんの声だった。階段を昇る度に、いよいよはっきり台詞が聞こえてくる。「りゅうのすけ」という名前が何度か繰り返し耳に届いた。その「りゅうのすけ」に呼びかけるような台詞を練習している。僕は時代劇をイメージしていたが、そうか恋愛物だったと思い出した。ふみちゃんはどんな役なんだろうか。何となく町娘や侍の妹などが似合っている気がした。
 階段を昇り終え、稽古中の部屋へと歩く。中から感情がたっぷりとこもった声がまた響く。ふみちゃんは演技力が結構あるんだな。衣装部屋と聞いていた稽古場所は和室っぽい。僕はふすまに手をかける。
「龍之介さま、ふみをもらいたいなんて……ふみは、後悔などいたしません」
 僕の手は止まった。
 な、何の練習だ? ふみちゃんが自分をふみと呼んでいるぞ。役柄なのか?
「龍之介さま、ふみの自由だとおっしゃっても……ふみの心は決まっております」
 すごく入りにくい場面だ。これはドラマで言えば、プロポーズを受けて答えているように聞こえる。ふみちゃんは中学生だけど、いや、見た目の背丈ならもっと下に見えるけど、本当にこういう内容なのだろうか。しかし、台本を作ったのは銀河さんだ。普通のものを書くとも考えにくい。それにしても――。
 息をひそめ、ふすまを静かにノックする。
「ふみちゃん、迎えに来たんだけど、いいかな?」
 僕なら声でわかると思ったのに、
「はっ、龍之介さまっ?! 違いますっ。今のは違います!」
 ……何が違うのかわからない。開けていいのか迷った。
「ふみちゃん――開けていい?」
「開けてしまいました! 読んでしまいましたっ。もう、ふみはどうしたらいいのでしょう!」
 ふすまを一枚へだてて、僕は立ち尽くし、ふみちゃんの迫真の演技を聞いていた。声は絶対にふみちゃんだ。誰か大学生がいれば開けてくれるかと思ったが、他に誰もいない感じなので、僕は「よいしょ」とふすまを開けた。室内は板の間で、ここもまた天井の真ん中に赤い電球が一個垂れ、チラチラと弱く光っている。
 すっと開けたかったが、滑りが悪くてガガガッとうるさい音が鳴った。入るのに無駄に苦戦した。看板を持った手に変な汗が浮かぶ。何だかドッキリ番組の種明かしの瞬間みたいだ。そんな間抜けな看板ではないのだけれど。まあ、とりあえず早く顔が見たい。
「迎えに来たよ」
「は、はいっ! ふみは、ふみは――っ!」
 美しい和装のふみちゃんと目が合った。部屋の中にはふみちゃん一人だけ。髪はいつも通りの自然な二つ分けを白いリボンで結んでいるが、薄紫色の大人びた着物に身を包んでいる。そこに白い蜘蛛の糸を張り巡らせたような柄が織り込まれていた。帯には、煙草を吸う悪魔のような絵が縫ってある。悪魔のまわりには濃い紫色の花が咲き乱れていた。何とも言えない着物や帯の柄だ。背が小さいのは変わらないけれど、驚くほど大人っぽい雰囲気がある。
 あれ? 化粧をしているのだろうか。頬が白く、唇が赤い。
「ふみちゃん、お化粧してる?」
「あ……数井センパイでしたか。わたしは龍之介様に恥ずかしい告白を聞かれたのかと」
 僕はきょとんとした。ふみちゃんは慌てて言い足す。
「け、化粧は銀河さんにしてやられました! 不良は今だけですっ。帰るときはちゃんと落とします。数井センパイ、違いますっ!」
 いつもは和やかなふみちゃんが珍しくめちゃくちゃだった。僕は変なスイッチでも押してしまったんだろうか。
「いや……別に演劇の練習で化粧しても不良とは思わないよ」
「そうですか、数井センパイが黙っていれば――わたしは安泰なんですね」
 ふみちゃんはハンターを警戒する小動物のように身構えた。まるで僕が口封じにやられそうな台詞だな。だけど明日の本番は、僕だけでなく会長の世界さんや女子副会長の英淋さんも見に来る予定だ。ふみちゃんの化粧は本番もされると思うし、たくさんのお客さんが見るはずだけど。
 まあ、そういうのはいいか。もしふみちゃんがふざけて飛びかかって来ても、くすぐり倒すくらいの余裕はあったが、ふみちゃんはすごんだだけで動かなかった。
 様子見に来たが、まだ練習が終わる雰囲気ではない。看板を壁に立てかけた後、ひとつ気になることを聞いた。
「なぁ、りゅうのすけって誰なの?」
「芥川龍之介です」
 昔の有名な作家だった気がする。銀河さんが今回書いた台本は、芥川龍之介が自分の作品世界に迷い込み、苦悩しながら恋人と結ばれる話だとふみちゃんが話してくれた。演劇のタイトル『RASHOW-MON』も、芥川龍之介の小説をもとに黒澤明監督が映画化した『羅生門』が元で、そこに銀河さんが龍之介の恋愛を盛り込んでアレンジしたそうだ。あまりイメージできないのはふみちゃんの説明が雑だからでなく、僕が古典作品を知らないせいだ。
 また、なぜその題材かと言うと、銀河さんの友人であるこの旧館の寮長が芥川龍之介を深く尊敬していて、憧れるあまり芥川龍之介のように大の風呂嫌いになったほどだと言う。そんな話を聞くと、旧館全体が臭うのは寮長のせいだと思いたくなる。
 そして、着物をきれいに着こなすふみちゃんは少し胸を張った。
「わたしは恋人役で、お嫁さん役なのです」
「えっ、お嫁さん役?!」
 聞くと、元の配役の女の子は大学一年生の十八歳らしい。それなら恋人やお嫁さんはわかるけれど、ふみちゃんはまだ中学一年生だ。事情を聞くと、元の女性はかなり背が低く、それに合わせて衣装を作った後なので、その人より背が高い代役は難しかったそうだ。銀河さんは友達が多いから他の代役を探せたはずなのに、ふみちゃんに頼んだのはそういう経緯だったのだ。
「へぇ、大学生でもふみちゃんくらいの背の人がいるんだね」
「数井センパイ、違います。その人より、わたしのほうがすでに一センチ勝ってます」
 それは勝ちと言わない気がする。僕は笑った。
「さっきの『もらいたい』ってのは、お嫁さんだったんだ」
 恋人役も驚きだったが、お嫁さん役かぁ……僕はそれを明日舞台で見るのか。龍之介役の人はきっと大学生だろうから、恐ろしく不思議な感じになりそうだ。でも、この大人びた着物姿のふみちゃんが演技するのを見るのはちょっと楽しみだ。
「……不安ですか?」
 ふみちゃんが急に弱気な顔を見せたので、僕は精一杯元気づけようと思った。
「いや、声もしっかり出てたし、台詞も間違えなかったし、突然の代役なのに頑張ってると思うよ」
 僕は明るく返したが、ふみちゃんはふくれっ面をした。
「……銀河さん、戻って来ませんね」
 一人きりの練習の疲れか、声がいまいち浮かないが、ふみちゃんは帯をきゅっと締め直した。夕立だと思った雨は長引き、赤く照った窓ガラスを打ち続けている。
 ふみちゃんがまた練習を再開する雰囲気になったので、座って見ようと思ったが、衣装部屋と言うだけあって部屋中に服があった。ただ、それも不気味で不潔な雰囲気で、ボロ布みたいな和服が床に何十着もめちゃくちゃに散らばっている。薄灯りの下に何着も服が重なり、黒髪のカツラや白いマネキンの頭や手足なども混ざって転がっていた。暗さに慣れて見回すと、動かないから死体みたいに見えてきて気持ち悪い。散乱した服から汗や埃の匂いが漂い、僕はだんだん頭が痛くなってきた。
「ふみちゃん、よくこんな部屋で一人で練習してたね……。気分は大丈夫?」
 そう言って和服をつまんでどかすと、なんと、下にふみちゃんの愛用のカバンがあり、カバンの中からまるで封印を解かれたような勢いで花柄のしおりが飛び出した。僕の鼻にぶつかり、そのまま宙を舞う。僕はふすまへ倒れそうに体制を崩した。花柄のしおりがしゅるるるると踊りながら電球の灯りに吸い寄せられ、部屋を旋回しはじめる。
 ふみちゃんは、よろけた僕のほうでなく部屋の奥を見ていた。
「数井センパイ、違います。そこで猿みたいに腰の曲がった白髪のおばあちゃんがずっと作業してます」
 いない。いないよ。そんなもの、この部屋にいない。
 待ってくれ。落ち着いて。何を聞いた。何を言っている。僕は部屋に入ってずっとふみちゃんと二人で話していた。部屋に白髪のばあさんが? 作業をしている?
 ――何を。
 いや、何をじゃなくて、とにかく、いないんだって。この部屋には僕たち二人きり。もうわからないことだらけだ。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「白髪のおばあさんは……何をしてるんだ……?」
「それ、わたしも聞いたんです」
 聞いたらしい。白髪のばあさんと言うものに。ふみちゃんは振り返り、僕の顔を見た。
「……で?」
「髪を抜いて、髪を抜いて、カツラにしようとしてるみたいです」
 僕はどう受け止めたらいいんだろうか。足下にはカツラもたくさん落ちている。それを拾えばいいじゃないか。いや、そうじゃない。床に散らばった服もカツラもまったく動いてないのだ。
「ふみちゃん、さっき、作業してると言ったけど……?」
「長い黒髪の美しい女に化けて、奪われた腕を取り返しに行くそうです」
 白髪の老婆が、黒髪の美女に化ける。腕を取り返しに行く。腕――腕とは、手の腕か。
 思考回路がショート寸前だが、僕は胸の鼓動と気合いだけでそこに立っていた。
「う、腕を取り返すって、どういうことだ?」
 このやりとりに終わりは来るのか。どこまでが限界なのか、僕自身も考えられない。とにかく、浮かぶ問いをまっすぐぶつけるしかない。
「六日前、ここで奪われた腕です」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。六日前、ここで腕を奪われた。七日のうちに奪い返しに行くと約束した。しかし、同じ老婆が再び現れたとあっては会ってすらもらえない。そこで、黒髪の若い娘に化けて会いに行くことにした。確か千年前も別の場所で似たことがあったが、娘の姿のときに腕を奪われて、老婆の姿になって会いに行き、油断につけこみ、腕を取り返せた。しかし、千年で状況は変わった。老婆の姿であっても情け容赦なく断られたので、今度は逆に若い娘に化けていくのだ、と。主張する。
 とにかく、腕を奪い返すのだ――と。
 何を言っているのか、今まで以上に謎だった。誰が腕を奪ったのか、なぜ奪われたのか、千年前というぶっ飛んだ言葉まで出てくる始末。しかも、話が髪やカツラからすっかり腕になっている。引っ張ってねじ切れて根元から抜けたような不穏な感触。
 六日前。そうだ、六日前と言えば、元の配役の女性がここで怪我した日じゃなかったか。腕を。もし、その女性に何かしら心残りがあるとして、取り戻すとは、七日目の明日、本番で役に戻りたいと強く願っている――とか。いや、だけど。
 あまりにも根拠のない想像で、非科学的で本当なら絶対に考えたくないけれど、もしそういう強い思念みたいなのが引き金になり、代役になったふみちゃんに災いが及ぶとしたら。話がすべて腕に向かってるわけだし、ふみちゃんの細い腕に何か起きてしまったら。僕は明日もっと痛ましい瞬間を見ることになるかもしれない。言おう。何かが起こる前に、はっきりと言わなきゃダメだ。
「ふみちゃん、降りよう」
「えっ?!」
 黙って考えていた僕がいきなりそんな言葉を向けたものだから、ふみちゃんは目を丸くして驚いた。
「お前が危険だ。早く降りよう」
「数井センパイ、で、でも、銀河さんが……」
 そうだ銀河さんだ。本番は明日。一刻も早く伝えなければ。もうじっとしていられない。ふみちゃんはまだここで練習を続けるつもりなのか。
 違う! 僕は断じて違うと首を横に振る。自分の胸の波動だけが決意の指針だ。
「ふみちゃん、僕がお前をどう護ろうと逃げるなよ。僕もそうしなければ病む体なんだ」
「数井センパイッ! 待って!」
 ふみちゃんが悲痛な叫びを上げたが、この瞬間ばかりはまったく無視した。
「口答えするな、お前をどうするか僕が決めたんだ! 降りるぞっ!」
 まるであのときと同じ――夏休みに、こいつが学校の旧校舎の図書館で、花柄のしおりが宙を舞う中、わけのわからないことをずっと叫び散らしていた時と、何も変わらない。僕がやらなければならないことは、何も増えていないし、何も減っていない。
「僕はずっとそばにいてやる! だから、僕の言う通りにしろっ!」
「うっ……!」
 僕はこの隙に見えない白髪の老婆から離そうと、着物を着たふみちゃんを抱っこして衣装部屋から駆け出した。途中、階段で下ろして手を引いたり、上がり口に座らせ落ち着かせてあげたり、夏の勢いで強く抱き締めたりした。あのときを思い出し唇を見つめると、そこには銀河さんに朱く塗られた口紅が、電灯の弱い光に濡れて照り輝いていた。
 ふみちゃんはあれだけ僕に怒鳴られて、震えるほどの涙目だった。僕を見ているのが恐いなら目を閉じろ、と告げる。素直に従った。
 雨音さえもなく――二人しかいない場所で、口づけをする。
 心が落ち着き、唇を離してもう一度ゆっくり抱き締めた。不確かな直感も、確かな疑いも、この子の前では全部はがされる。それから僕はおかしくなるくらい、空腹だった。もう、今日のことは全部なかったことにして、この子と一緒に帰りたかった。たったひとつ、銀河さんに言伝さえ済ませれば。

 一階の玄関が急に騒がしくなった。黒い木のドアを開けると、雨は上がり、玄関前に台車に積まれた巨大な四角い木箱がこっちに向かって来た。箱の中から銀河さんが手を振っている。台車は大学生が押していて、銀河さんは甲高い笑い声を上げながら台車で走るのを楽しんでいた。いったい何の準備をやっているんだ。それとも勢い余った遊びなのだろうか。
 ふみちゃんを上がり口に残し、僕は銀河さんのそばまで歩いた。すると、銀河さんは僕の顔をまじまじと見て、
「ふうん」
 と言う。
「二人にすると――やることやるのね」
 にやりと口元をゆがめ、ねっとりした流し目で笑った。僕は一瞬戸惑ったが、すぐに原因に気づいた。口紅だ。僕の唇に朱い色が少し移ってしまったのだろう。でも、否定することでもないし、慌てて拭き取るのもカッコ悪い。そして珍しく僕は開き直った。
「銀河さん、遊んでるんですか?」
 本当はそんなことよりも伝えたいことがあったが、銀河さんがこの状況を尋ねなさいという顔つきだったのだ。
「数井くんよね? 違うわ。トロッコの走行練習よ」
 劇で使うらしい。どうでもいいから詳しく聞かなかった。
 僕は二階の衣装部屋で起きた出来事と、そこから自分が感じたことを手短に話した。銀河さんはトロッコに入って聞いている。実際、銀河さんもふみちゃんにおかしな現象が起こった瞬間に遭遇したことはあるのだ。話が終わると、深く頷いてトロッコから降りた。
「なるほど。あなたたちに関係ないから、事情はあんまり言えないけど、多少の因縁はあるかもね」
 女の全力はこじれると恐いね、と腕を組んだが、僕はただ黙っていた。
「あの子は龍之介の恋人をずっとやりたがってたのよ。うん、わかった。今からあたしが家に行ってあの子が一番練習したシーンを録音して来るわ」
 その女性は、骨折ではないので入院はしていないが、腕の筋を傷めて家で安静にしているらしい。銀河さんは駐車場へ歩き出す。その女性についてはここの準備を差し置いて今すぐやらないといけないと考えたのだと思う。
「彼女が譲れないのは、たぶん届いた恋文を読み上げる場面なの。どの道、あの子は来れないし、そのシーンは本番でふみちゃんは何も言わず舞台に立ってるだけにするね」
 僕は何も反対しない。劇をどうするかは銀河さんたちが決めることだ。
「数井くん、男と思って頼みがあるの。結構難しいんだけど、これ、君しかできないんだ。今からするふみちゃんの最後の練習で、あたしの代役やってくれない?」
 ペンと便箋を渡された時とは言い方がだいぶ違うが、結局、僕は銀河さんに協力すると知っているのだ。で、当然僕がやるともやらないとも答えないうちに、トロッコの中から亀みたいな緑色の甲羅が出てきて、いきなり渡された。
「亀じゃなくて河童なんだけど、龍之介から恋文を預かり、トロッコに乗ってふみに届ける役なの。ちょっと変な顔しないで。ファンタジー、ファンタジー」
 いま僕はそんなに露骨に変な顔をしたのか。
「河童ですか……。あの、『ふみ』って?」
「あ、台本知らないよね。龍之介の恋人であり奥さんになる人の名前が『ふみ』。文学の文と書いて『ふみ』よ」
 そう言えば、二階ではふみちゃんに龍之介が誰なのかしか聞かなかった。確かにふみと名乗っていた。今回、文の役をふみちゃんがやるわけだ。
「――それって、偶然ですか?」
 変な聞き方だが、銀河さんは首を傾げつつ笑った。
「運命なんじゃない?」
 そして、僕は仕方なく甲羅を背負った。よく考えれば別に練習で背負う必要はなかったのに、銀河さんが早く早くとせかすので、うっかり着てしまい、その格好でトロッコに乗り込んだ。銀河さんの指示が始まる。まず、台本を一冊渡される。書き込みのないきれいな台本だ。あと、龍之介の手紙は僕がさっき書き写したのを使うよう言われた。で、「後はよろしく。楽しみにしてる」と大学生の友達に頼み、事情を説明した後、駐車場へ走って行った。
「ハズイくんだっけ? 似合ってるよ。よろしくね!」
 と面識もない男子大学生に励まされ、僕はトロッコを押された。恥ずかしがり屋っぽい呼び間違いを正したかったが、もういい、きっとこの一度きりだ。
 別の大学生が館内で待つふみちゃんを呼びに行き、玄関先の外で練習することになった。ふみちゃんはトロッコを見て一瞬息を飲んだが、僕の顔をじっと見つめると、すぐ白いハンカチを取り出して渡してくれた。そんなに目立つのかと知ると、照れ臭さが何倍も増してくる。
 練習に入る前に、ふみちゃんが少し不安げな顔で聞いてきた。
「あの、数井センパイ……わたし、この役は続けていいんですか?」
「大丈夫だよ。銀河さんが何とかしに行ったから。せっかくの練習を無駄にはさせないよ」
 心からそう願い、僕は何とかできそうな銀河さんにいち早く頼んだのだ。そしてちゃんとすぐ動いてくれた。
「でも、さっき『降りよう』って……」
「ん? とりあえず二階からだよ」
 僕は普通に答えたが、ふみちゃんは急に嬉しそうに微笑んだ。そんなに喜ばれる答えでもなかったと思うけれど、不安が薄れて何よりだ。顔に元気が戻って、ふみちゃんは僕の状態をあらためてじっと眺めた。
「数井センパイ、これ、予想外の乗り物ですね」
「……僕だってこんなこと聞いてないよ。まったく」
 甲羅を背負った格好を笑われるかと思ったが、今だけの銀河さんの代役と説明を聞いたので、からかう気はないようだ。僕はハンカチで唇を拭き終え、一瞬考えた後ポケットにしまった。トロッコの中からふみちゃんに「洗って返すね」と小声で言うと、うんと小さく返事してくれた。
 練習が始まる。僕は台本を見ながら急いで河童の役割を理解し、小道具の恋文をふみちゃんの――文の前で開いた。冒頭だけ河童が読むことになっている。手紙では読めない少し漢字もあったが、台本はフリガナが振ってあった。


文(ふみ)ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしています。
何時頃うちへ帰るか、それはまだはっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは文ちゃんにこういう手紙を書く機会がなくなると思いますから奮発して一つ長いのを書きます。
昼間は仕事をしたり泳いだりしているので、忘れていますが、夕方や夜は東京が恋しくなります。
そうして早くまたあのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思います。
しかし、東京が恋しくなるというのは、東京の町が恋しくなるばかりではありません。
東京にいる人も恋しくなるのです。
そういう時に僕は時々文ちゃんの事を思い出します。
文ちゃんをもらいたいという事を、僕が兄さんに話してから何年になるでしょう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)
もらいたい理由はたった一つあるきりです。
そうしてその理由は、僕は文ちゃんが好きだという事です。


 河童の代読はここまでだった。しんと静まる。どうしようもなく顔が真っ赤になった。僕は河童役だと、そしてこれは龍之介の恋文だとわかっていても、口づけをした後にこれを読むのは強烈に恥ずかしい。
 だけど、僕は練習を見守る大学生たちに囲まれながら、役目を果たさなければならず、何とか読み切った。しかし台本に見入ったまま、顔を上げなかった。なぜなら、顔を上げればそこにふみちゃんがいるからだ。あの子がどんな表情でこれを聞いているのか、自分の目で見るのが恐い。心臓が背中の甲羅を突き破るくらい高鳴っていた。
 台本では、ここで恥じらう文が河童から手紙を奪い取り、自分で読み上げるシーンに移る。文が二三歩近づいてきたので、僕はうつむいて手紙を差し出すと、文は手紙を奪い取るという荒々しい仕草でなく、そっと和紙を優しくつまむように受け取った。それから、文は――ふみちゃんは手紙を持ち、なぜか読みはじめなかった。
 夜が落ちた旧館の前で、沈黙の時間がしばらく流れる。
 おかしい、僕が間違ったのかな……とあせって台本を見直す。いや、文の番だ。もしかして元の配役の女性に遠慮してしまったのか、あるいは緊張で台詞が飛んでしまったのか、まわりの大学生も戸惑っている様子だ。
 僕は異変があったら大変だと感じ、思い切って役を捨て、ふみちゃんの顔を見た。
「ふみちゃん、大丈夫か?」
 風格ある旧館を背にして、不思議なほどやわらかい笑顔が待っていた。ふみちゃんはトロッコに手をかけ、僕のすぐ顔の近くまで身を寄せてくる。心が揺れて弾んだが、どうやら僕の演技が足りないからのようだった。
「数井センパイ、違います。最後くらいわたしの顔を見て言ってください。ねっ、やり直しましょ」
 こんな照れ臭い手紙、もう一度読み直ししろって言うのか。河童の僕から――お前に。ふみちゃんの目は本気だった。本気で求めていた。僕は根負けして素直に従った。
 二度目は頑張って最後にふみちゃんの目を見て読み、今日のふみちゃんの練習は終わった。銀河さんに電話を入れると、向こうはこれから録音とのことだった。
『ほんとありがとね。明日はお客さんでいいからね!』
 報告を済ませて電話を切る。こんな心臓が割れそうな思いは一度だけで十分だ。館内で私服に着替えたふみちゃんがドアを開けて出てくる。自転車で送ると言うと、ほっとした顔で笑った。気づけば結構遅い時間である。二人とも空腹の限界だった。

 翌日本番、二十六日の午後五時、僕と世界さんは銀河さんからのチケットで演劇を見に来た。世界さんも弟ながら演劇を見に来るのは初めてらしい。会場の新館へと歩きながら、旧館を脇目に眺めると、世界さんは「屋根から蜘蛛の糸が垂れてるな」と短くコメントした。蜘蛛の糸はよく見えないが、光や影の具合かもしれない。
 僕は昨晩ここで起きたことは世界さんに話さなかった。けれど、家で銀河さんから何か聞いている気もする。ただ、世界さんは興味なさそうに旧館を通り過ぎた。
 女子副会長の英淋さんは、弟が藪の中で転んで足を捻挫したらしく、急に来れなくなったしまった。家族想いの英淋さんが弟の世話を優先することはよくあることだ。もちろん、ふみちゃんの舞台が見れないことをすごく残念がっていた。
 新館に着き、受付を済ませて暗幕をくぐって中に入る。こっちの建物は冷房がちゃんと効いていて安心した。きっと旧館が特別古いのだろう。
「ふみすけの晴れ舞台をじっくり見てやろう」
 世界さんはいきなり最前列に行ったので、気は進まないが僕も並んで座った。ちなみに世界さんはふみちゃんをふみすけと呼ぶ。本番で僕たちが目の前に座っていると、ふみちゃんは緊張するだろうか、それとも喜ぶだろうか。昨日のことがあったので、心中は何とも言えない。
 時間になり上演が始まった。どん帳が開く前に、劇団の人が住職のような僧衣姿で現れた。目立つのはあごまで垂れ下がったすごい巨大な鼻だ。作り物の鼻を付けている。
 どん帳の前に立ち、客席に説明を始めた。今日は黒澤明監督の『羅生門』が公開された日だとか、撮影は禁止とか、携帯電話をマナーモードにとか――声は銀河さんである。垂れた長鼻をつけた変装だったのか。そして、次に龍之介の恋人・文の代役について説明した。チラシやポスターは元の女性の名前だからだ。
「一週間前、稽古中に怪我をしてしまい、文役はできませんので、今日は代役の者が務めます。ですが、本人が一番練習したシーンだけはどうしても彼女に演じてもらいたいと思い、台詞だけを録音してきました。そこだけ声が変わりますが、皆さま、どうか心の目をとぎすませてお聴きください」
 僕はひざに置いた拳を握り締めた。
「それでは、これより『RASHOW-MON』の上演を開始いたします」
 銀河さんが深々とお辞儀をして下がった。客席の後ろのドアも閉められたようだ。もう少しで始まる。そのとき、世界さんはいきなり僕に話しかけてきた。
「数井は出ないのか? 舞台で恋文を読むのかと思ってたが」
 ――えっ、急に何を言うの? いや、僕は出ないけど。
「世界さん、違います。河童役は銀河さんでしょ?」
「数井、違うぞ。姉さんは河童役じゃない。『羅生門』にそんなのは出ない」
 と世界さん。僕が混乱したので、世界さんにチラシを見せられる。確かに河童役はどこにも書いてない。銀河さんは脚本だけで、出演すらしていない。
「あれ? 河童がいない……」
「なんだ、そうか、姉さんの企みか。昨日の夜、練習中の録画を家で見せられたんだが」
 録画って何のことだ? 何を録画してたんだ? 世界さんは何を見た?
「えっ……だったら、トロッコで運んでくるのは誰?」
「トロッコなんて『羅生門』に出ないぞ」
 僕は原作を知らない。まさか――昨日のあの代読シーンを録画したのか? というか、あのシーンが偽物? 練習にいた大学生たちは銀河さんの企みに協力しただけ?
「でも、ふみちゃんも一緒に練習しましたけど」
「さあ。驚いた顔してなかったか?」
 ぼんやりと、予想外な乗り物だとか言っていた。
「はっ? えっ、いったい何が本当なんですか?」
 会場が一気に暗くなった。始まるのだ。世界さんは苦笑し、僕の肩をポンと叩きながら、声をひそめた。
「まあ、いいだろう――真相は藪の中だ」
 それから会場の照明がすべて落ちた。まったくの闇だった。他の観客の咳払いがひとつ、ふたつ。闇の中で大きな音楽が鳴り出し、目の前のどん帳が開いていく気配がして、それ以上僕は何も聞けなかった。

 実際に河童役などいなかった。龍之介の手紙が文のもとに届き、文が自分で読み上げた。手紙を持つのはふみちゃんだが、そこで音声が変わり、違う女性が恋文を読む声が会場に流れた。これが腕を怪我した女性の声なのだろう。すごく感情がこもっていて、僕が代読した百倍もうまかった。当たり前だけど。とても切なさの募る朗読だった。
 そうして演劇が終わり、世界さんは銀河さんの頼みで片付けの手伝いに加わった。一方、ふみちゃんは、銀河さんや他の出演者やスタッフに御礼をすると、すぐ僕のもとへ駆け寄ってきた。紫の着物から着替えも済ませ、身軽なTシャツになっていた。
「数井センパイ、これ見てくださいっ。お芝居の小道具をもらったんです」
 芥川龍之介の恋文を持っていた。台本では読まれない原文の続きがきちんと書いてあるものだ。
 内容は知っている。そう、僕の字なのだ。昨日、銀河さんに頼まれて旧館の上がり口で手書きした手紙だ。続きも気恥ずかしいくらい純粋な恋文だった。
「――持って来ていいの?」
「銀河さんに、持って帰っていいよ、と言われました」
 頷いて自転車のスタンドを上げると、ふみちゃんは後ろに乗った。羽布団みたいなふみちゃんの重みは重さと言えなかった。僕は蒸し暑い夜に向かって自転車をこぎ出す。
 すると、ふみちゃんがなぜか僕の髪の毛を少しいじった。髪を集める白髪の老婆を思い出し一瞬驚いたが、二人乗りだから振り向きづらい。
「……数井センパイ、昨日言ったこと本当ですか?」
 突然の問いかけに、僕は心臓が飛び出しそうになった。 なっ、何を言ったことだろう。龍之介の手紙にあった言葉は、あれは僕が言ったことになるのか。いや、だって、あれは龍之介だし、相手は文だ。ふみちゃんは文じゃない。ふみちゃんはふみちゃ
「わたしを護らないと病む体なんですか?」
 覚えているんだ。うん。それなら追い詰められて確かに言った気がする。合っている。
「そうだな、絶対に病むよ。心配性なんだよ」
 もしふみちゃんに何か起きたら、腕を奪われた鬼のように僕は七日以内に、いやすぐにでも何とかしに行くだろう。今の僕が出来ることなんてそれくらいだ。それが大袈裟だとしたら、こうして後ろに乗せることと、これから一緒にいてあげることくらいだ。
「あの手紙は――人に見せてもいいですか?」
 そのフレーズに似たものが龍之介の恋文の続きにあった気もするが、もう思い出せない。読んだシーンを録画されてるんだ。銀河さんや世界さんにも見られている。
「見せても見せなくてもふみちゃんの自由だよ」
 目の前の信号が変わりそうだったので、僕はつい素っ気なく答えてしまった。
「数井センパイ、違います。そこは、今日限りの記念にして、と言ってください。だから、次に見るときは」
 言葉を止めた。
「……次に見るときは?」
「美しい女の姿で、約束をするときです」
 最後の言葉はどういう意味かよくわからなかったが、お互い代役の務めは無事に終わり、ふみちゃんとは別に進展はない。帰り道、芥川龍之介が文へ恋文を送ったのは八月二十五日だったとふみちゃんに教わった。どういう巡り合わせかわからないが、とにかく昨日借りて洗ったハンカチをまた明日ふみちゃんにきちんと返しに行くだけだ。

(了)


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青砥 十

Author:青砥 十
幻想、冒険、恋愛、青春などをテーマにした短編小説をいろいろ書いています。子供のころから妖怪が大好きで、最近は結構ゆるふわなものが好みです。 生まれは群馬県前橋市。現在、奈良県在住。どうぞよろしくお願いします。

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